マン島レース

第一話 マン島制覇

 1. 制 覇
 世界で最初のオートバイ・レースはイギリス中央部に浮かぶ島「マン島」で始まった.この物語にも常勝ニッポンが登場する。

マン島というのはイギリスの2つの島,グレートブリテン島とアイルランドに挟まれた小さな島で,イギリスの一部ではあるけれど,英語の他にマンクス語というケルト系の言葉も使う独特の文化をもっている島で、人口約7万人,首都は「ダグラス」。

そして,世界的に有名な「マン島TTレース(ツーリング・トロフィーレース)」と呼ばれているこのレースは1907年に始まり,この島の市街地と峠の曲がりくねったコース,1周60km,高低差400メートル,コーナー数は実に219という曲がりくねった難コースで争われる.すでに100年近い歴史がある由緒あるオートバイレースである。

 
(マン島)

人間には不思議な性質があって、ときどき「三度の飯より好き」というのが現れる。オートバイというのはそのようなもので、これにはまると実に面白い。昔はオートバイに夢中になる連中を“オトキチ”と言ったものだが,最近では人間の幅が小さくなって、オトキチとはなんだ、キチというのはキチガイという差別語が入っているという話になる。もともとオートバイが好きな連中はキチガイと呼ばれればうれしい。それほどの賛辞はない。私はそう呼ばれたい。

それはともかく、彼らが熱中するこのマン島TTのレースが40回を超えた1959年,125ccクラスの入賞者に異変が起こった.なにしろマン島TTレースのお陰でマン島といえば二輪レースの聖地とも言われていたのだから、マン島のレースを制覇するものは世界を制し,それは工業を武器に世界を席巻しておったヨーロッパ勢に決まっていた。

ドイツのMV,MZ,イタリアのドカティ・・・名立たる名前がその栄冠の歴史に残っておる.あこがれのマシーン、伝説のマシーンがマン島に並んでいたのである.その一角に東洋の小島からきた「ホンダ」という名のオートバイ・メーカーの奇妙なバイクが割り込んできた.


1959年6月3日.マン島TTレース125ccスタート風景.
 3,4列目にホンダ.(オートバイの素晴らしさは愛好者のホームページで堪能できる。
この写真も黒田克祥さん,中野広之さんなど名だたる愛好者のページから頂いたもの.)

 大異変の最初の兆候は,1959年6月13日から17日にマン島・クリプスコース,1周17.364kmでおこなわれたレースに現れた。その年の125ccクラスの結果は次の通り。.

1位 T・プロビニ     MZ   
2位 L・タベリ      MZ
3位 M・ヘィルウッド  ドカティ
4位 ヒューグナー     MZ
5位 C・ウビアリ     MV
6位 谷口尚己       ホンダ

 このときマン島の歴史でMZ,MVなどの伝統的なヨーロッパの車にならんで、英語ならHondaの名前が出たのである。マン島の見物人にとっては「ホンダ」が初めてなら,「谷口」というレーサーの名も初耳である。

日本にとって歴史的なレースとなったこの戦いは,次のように進んだ
第1週周目,上位はラップタイム8分57秒から9分5秒で走り抜けて来たが,谷口は9分52秒.先頭からは1分遅れ,ラップ・ポジションは10位から勝負は始まった。

まずプロビニ,タベリ,それにウビアリらのMZ,MV勢やドカティが一斉にトップで飛びだす.そしてレースは混戦になり,有力なライダーと目されていたビル・ハントが2週周目に転倒してリタイヤ,ドカティのスパギアーリが3周目にリタイヤして谷口は9位に上がった.この時点ですでに日本側にとっては予想外の善戦だった。

「いいところを走っているぞ!」
チームのメンバーは喜んだと言う。そして、9周目。4位のMZのデグナー,MVのチャドウィック,そしてドカティのビラがつぎつぎとリタイヤして,谷口が6位に躍り出た.ホンダに幸運の女神が微笑んだ瞬間だったのだろう.それからのホンダの活躍を女神は当然、知っていただろうし、それが有力3選手のリタイアとなった。.

Lap Position(3 June,1959(Wed.)1 p.m.125cc Clypse Circuit)

 マン島のレースは住民と一体で行われる.オートバイが走る道路も公道なら,観客席も道沿いにあって、カジノや釣り,ゴルフなども盛んなこの島のことだから10万人ともいう観客はビールでも飲みながら爆音轟くレースを楽しむのである.レーサーやチームはビリビリしているが,見物に駆けつけたオートバイ・ライダーどもは夜ともなれば町に繰り出し,ビール片手にバイク談義に花を咲かせる.本当にうらやましい風景である。日本にも江戸時代はそうだったが、明治から日本は働くだけの奴隷となった。

「ホンダってのはなんだ? 日本から来たらしいが?」
「そうらしいな.どうせメカは猿まねだろう.まあ,今日のレースは荒れたからな.上位がこけて入ったまで.たまにはこんなのもいいんじゃないか・・・」

 ただ,マン島の本当の衝撃は翌々年にやってきた.1961年の6月マウンテンコース,160.725kmを回ってゴールしてきた125ccクラスを見て,観客は驚愕した.

1位 M・ヘィルウッド   ホンダ
2位 L・タベリ      ホンダ
3位 T・フィリス     ホンダ
4位 J・レッドマン    ホンダ
5位 島崎貞夫       ホンダ
8位 谷口尚己       ホンダ

「な、なんだ!これは!?」

 名前も知らぬオートバイが優勝している。イヤ、たんに優勝しているというだけではない。1位から5位まで全部「ホンダ」!?

 この世界一、格式が高く,参戦したライダーには,畏れ多くも英国女王より勲章が授けられるマン島TTレースに入賞した有色人種などなかった.それを東洋の小国が突然,地球の反対側まで出かけてきて白人を一掃し他のである。

「マン島を制するバイクは世界最高のマシン」と呼ばれていた.このとき出場したホンダのマシンはRC141という125cc,4サイクル2気筒エンジンのもので,最高出力は13000回転で18馬力だった。

ホンダがマン島を制覇したすぐ後には,ヨーロッパの新聞記者どもは“どうせ,東洋のサルが俺たちのエンジンを真似たのだろう”ぐらいに話していたが、がホンダのエンジンが高出力であること,構造が精密なことが徐々に知られてくると,逆に,イギリスのデイリー・ミラー紙が論調を変えた。

「まるで時計のような精密さ.アイデアに満ちあふれた完璧なエンジン」
と評したのである。

それは、1941年のマレー沖で大英帝国旗艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した日本海軍の陸上攻撃機。さらにその前,日露戦争でロシア帝国のバルチック艦隊を海の藻屑にした日本海軍の砲撃と下瀬火薬。精密な機械,確実な操作・・・それは日本の技術者にはお手のものだった。

日本はヨーロッパより優れている。今では茶髪がはやり、国立大学の先生はアメリカやヨーロッパに行ってワインを飲む。でも日本の方が優れているのではないか?

でも、ヨーロッパ人のモータサイクルにかける思い入れは格別である。今から120年も前,1883年に“ガソリン内燃機関”というのをダイムラーが発明してすぐ1885年には特許を獲得し,翌年には第1号機の試験運転に成功した.

エンジンは4サイクル単気筒,排気量が260cc,負圧による自動吸気方式と予熱バーナーを組み込んで,エンジン出力は0.5馬力/700rpm,最高速度は12km/hだった。エンジンの出力はリッター当たり何馬力というので性能の見当をつけるが、そのような尺度では、このダイムラーのエンジンはリッター当たり2馬力である。

ダイムラーが特許を取得した翌年にはベルリンのドイツ帝国特許庁が発明者カール・ベンツに登録番号No.37435の特許登録証を授け,三輪,単気筒ボアストローク91.4*150mm,排気量984cc,出力0.9PS/400rpm,最高速度16km/hの車が作られた.

ダイムラーが先かベンツが先かなどは個人としては重要かも知れないが、オートバイの歴史という点ではそれほど注目すべきことではない。どうせ違っても1,2年であり、大きな発明が複数の発明家で同時に着想されることは歴史的にも希ではない.人間というのはその時代の中で発想するのだから、どうしても同時になる。

トルストイが繰り返し描写しているように、人間は歴史的存在だから、たとえ自分1人で発明したと自慢していても,発明家が着想することは全体の発明のほんのわずかで、ほとんどのものはすでにその時代に存在する。でも、やはりエンジンの誕生は人類の将来にとっても大きな出来事だったことは間違いない。

   
1885年ダイムラーレプリカ        1886年ベンツレプリカ

最初の作品はフレームが樫の木でタイヤはまだ空気が入っていない。実は、イギリス人ジョン・ボイド・ダンロップがチューブに空気が入ったタイヤを発明したのは,ダイムラーがエンジンを発明した2年後だったから,“タイヤ”というものもない時代だった。だから、補助輪をつけ,ガタガタと走っていた。その間、2年。

そして、時代が流れ、ダイムラーとベンツの二巨頭興味は四輪に移り,オートバイの方はドイツのヒルデブラント&ボルフミュラー社が作るようになった.彼らは1488ccの水冷2気筒エンジンのオートバイを1894年に売り出した.時あたかも20世紀の幕が開けようとしていたときである。

このようなヨーロッパの古いエンジンの歴史を背負ってマン島TTレースにMZ,MVそしてドカティなどのヨーロッパ車が登場していたのである。

 ところで、マン島レースの歴史も少し振り返ってみることにする。

オートバイができてしばらくすると,この素晴らしいマシーンを限界まで走らせたいという人たちが登場する。そして,それに輪をかけたのが新興国としてのし上がってきたアメリカであった。1903年にフォードが自動車会社を作って第1号を販売すると,たちまち10年後にはベルトコンベアー生産方式とやらを考案して一気に世界1にのぼりつめた。

 ヨーロッパからみると、自動車の大量生産はアメリカに譲っても,発明の名誉はヨーロッパだと誇りはある。そうしている内に、アメリカのジョージ=セルデンという人の特許がダイムラーの10年前に申請されていたという話も乱れ飛んでいた。

 ちょうどそんな時にアメリカの新聞王ゴードン・ベネットがパリに滞在していて、ヨーロッパのオートバイに対する熱意を自動車レースという形にして、それで新聞の販売量を増やそうとした.

まだ自動車レースもない時代だから、ルールを作らなければならないということになり,距離は最低で342km,車3台で1チームとして,エントリーした国で製造したものに限ろう,そしてドライバーはやはりエントリーした国のナショナルクラブに所属していなければダメだ・・・など,最初のルールが決まっていったのである。

 1940年10月,パリ-リヨン間352マイルのコースで初めてのゴードン・ベネット杯争奪レースがおこなわれ,参加した国はフランス,ドイツ,そしてベルギーだったが、レースとは名ばかり,だいたい,レーサーですら道をよく知らない有様だった。

だから「どこがゴールか?」で一揉めしたりしている。もちろんレースは公道でおこなわれたから,事故は起こるしレーサーのマナーは悪い.出場する方も1チーム3台に限定されていたので不満がでる・・・あれこれ重なり,それが内部分裂に発展する。

そんなもめ事の中からヨーロッパ大陸でのレースではなく、マン島という特別な島が浮かび上がってきた.マン島はイングランドとアイルランドとの間の島で,自治政府が独立していて,道路の制限速度もゆるかった.そこで,マン島で実験的にレースをしてみたところ,なかなか良い結果がでて、現在のF1レースやマン島TTレースが誕生した。

自動車レースの黎明期だった.

(おわり)