マレー沖の奇跡

第三話 -マレー沖海戦次第-

 1941年12月6日、日本軍のハワイ奇襲の2日前、日本の遙か南方、シンガポール、マレーシア方面に日本軍の主力が展開しつつあった。

コタバル飛行場から発進したイギリスの偵察機がインドシナ半島南端カモ岬の南東80マイルの海上に北西に進む日本船団の群を発見。機長のラムショー中尉は「輸送船25隻、戦艦1,巡洋艦5,駆逐艦7」と報告している。

翌日朝には、同じコタバル飛行場からイギリス軍のカタリナ飛行艇が偵察に出たが、この偵察機は日本軍の戦闘機に撃墜されて消息を絶った。

にわかに活発になる日本軍の動きに、イギリス軍では直ちに出撃すべきとの論のあったが、司令官が出撃を逡巡していた次の日の深夜0時、牟田口廉也中将率いる先発隊の第18師団・歩兵第56連隊、第23旅団がコタバルに上陸し、つづいてこれも深夜2時猛将山下泰文中将の第25軍司令部と第5師団主力がシンゴラに、第5師団歩兵第42連隊がパタニーに上陸した。

コタバルではインド第8旅団と激戦となり、9時間の戦闘の結果、日本軍は戦死320名(全体の16%・・・この数字はかなり高い)を出して、コタバルの飛行場を占拠に成功した。この攻撃は真珠湾奇襲に先立つこと1時間20分であったから、アメリカ軍はこの攻撃を知っていた。真珠湾攻撃が奇襲ではないと言われるのは、すでにアメリカ軍が日本軍の暗号を解読していたとされ、またこのコタバル攻撃の連絡を同盟国イギリスから得ていたと考えられるからである。

ハワイは奇襲ではなく、アメリカ首脳部の策略の可能性もある。

 このコタバル飛行場激戦中、シンガポールの英司令部がレーダーで国籍不明機を発見し、直ちにシンガポールに灯火管制の命令を出したが、防空本部は留守、おまけに変電所は係の軍人が鍵をもったまま外出しているという有様だった。この時期のイギリスを含めた東南アジアの軍隊はそれほど真面目ではなかった。

日本軍は真面目に攻撃を続行、サイゴンから飛び立った海軍第22航空戦隊の九六式陸攻17機が煌々と輝くシンガポールを空襲し、63人の市民が死に、日本機は全機無傷で帰還した。

ここに至って、英東洋艦隊司令長官のフイリップス大将は旗艦「プリンス・オブ・ウエールズ」に幕僚を召集し、日本艦隊に奇襲をかけたいと提案する。

しかし、時すでに遅かったのである。緒戦で日本軍が地上の英軍機を爆撃し、その日にはイギリス軍機は150機から50機に、さらに翌日には10機に減り、プルフォード空軍司令官は東洋艦隊の援護ができなくなっていた。しかたなしに、航空機の護衛なしで、午後5時、旗艦プリンスオブウェールズ、戦艦レパルスを主力とする英『Z艦隊』がシンガポールを出港した。

 日本軍は2日前にはアナンバス沖に機雷456個を敷設していたので、Z艦隊は機雷を迂回して進撃した。この時点での日本軍航空隊の戦力は、九六式陸攻 81機、一式陸攻 27機、零式戦闘機 27機、それに陸上偵察機 9機の140機ほどであった。仮にイギリス航空機150が無傷なら制空権は互角だった。しかし、すでにイギリス軍は10機しかなく、彼我の差は歴然としている。

そして、英艦隊出撃の情報を得た日本軍は直ちに雷撃機を発進させた。第一陣は激しいスコールのため午後7時に帰還。


イギリス艦隊攻撃に向かう九六式陸攻の歴史的写真

あけて翌日午前10時15分、三番索敵線を偵察していた帆足少尉機がZ部隊を発見。日本海海戦の信濃丸同様に歴史的電信を打つ。

「敵主力見ユ。北緯4度。東経103度55分。針路60度。1145」

11時13分、 美幌空5中隊8機が攻撃開始。Z艦隊が毎分数千発を射撃できるポムポム砲で日本航空隊を攻撃、これに対して美幌空がレパレスに高度3千㍍から250キロ爆弾を投下。一発が第四砲塔に命中した。

11時34分、 元山空1・2中隊が到着、8機がプリンスオブウェールズに魚雷攻撃を行い2発が命中し、艦は操艦の自由を失い、日本機も一機撃墜される。

11時38分、 2中隊7機が戦艦レパルスを攻撃。命中せず。
11時57分、 美幌空8中隊8機が到着。「レパルス」に魚雷攻撃。命中せず。


水平爆撃攻撃をうける戦艦レパルス

12時19分、 英空軍11機の戦闘機が迎撃のために飛び立つ。
12時20分、 鹿谷空1・2・3中隊26機が到着。6機がプリンスオブウェールズに魚雷攻撃。三本が命中。日本機2機撃墜。20機がレパルスを攻撃。五本が命中。左舷に30度傾き、艦長が退艦用意の命令を出す。3分後に沈没。

当時、上空からの水平爆撃は航空機の速度と回避動作をする戦艦との関係でなかなか命中しない。それに対して急降下で雷撃を加える方法は有効だった。レパルス撃墜もこれが効いた。

12時43分、 美幌空6中隊の武田攻撃隊の500キロ爆弾がプリンスオブウェールズの後部に命中。500キロ爆弾の威力はすさまじい。
13時15分、 旗艦ついに退艦命令。フイリップ提督、リーチ艦長は艦に残る。5分後に沈没。英駆逐艦三隻が沈没した戦艦の生存者を救出。日本機はこれを妨害しなかった。戦場のルールはまだ存在していたのである。

     

(左)戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、1939年建造 排水量36,750t 最大速力29,25ノット、360ミリ砲10門、135ミリ砲16門、40ミリ8連装ポムポム砲6基、40ミリ対空砲10基、20ミリ機関砲10基、12,7ミリ機銃16基、不沈戦艦とチャーチル首相が世界に誇った最新の戦艦
(右)巡洋戦艦レパルス、1916年建造、排水量32,074t 最大速力32,6ノット、380ミリ砲6門 100ミリ砲12門、530ミリ魚雷発射台8門、40ミリポムポム砲2基、100ミリ高角砲8門 13ミリ連装機銃2基

 この海戦の結末は日本海海戦にも負けないほど衝撃的な事件だった。

 栄光の英東洋艦隊は日本軍を甘く見ていた。戦艦の脅威になるのは九六陸攻のような水平爆撃機ではなく、雷撃機や急降下爆撃機だから、航続距離はせいぜい350キロの雷撃機で、シンガポールの近くに基地を持たない日本軍がたいした攻撃はできないと思っていた。

Z艦隊が出撃したときにはすでに真珠湾攻撃の情報が入っていたが、戦艦レパルスの士官室では
「そんな、東洋の小国のオンボロ飛行機で真珠湾のアメリカ軍をやっつけるはずはない・あれは、ドイツ空軍がパイロットを乗せ日の丸をつけてやったのだ」
と話していたと記録されている。

アジア人が白人をやっつけることなどあり得るはずもない。ロシア人なら別だが・・・というのがイギリス人の頭にあった。


 マレー沖合戦図

 しかし事実は意外な展開を見せて、東洋の小国、日本が大英帝国旗艦を撃沈する。

イギリスのチャーチル首相は、旗艦の沈没の報を受け、栄光の大英帝国旗艦の船長は救助の士官に”No thank you” と言って艦と運命を共にしたことを知って、「生涯で、かくも大きな痛手を受けたことはなかった」と慨嘆した。

チャーチル回顧録には、この両艦のシンガポール派遣について「私がシンガポールにプリンスオブウェールズを派遣するよう主張したのは、まるで「羊を殺させに行かせたような」ものだった。私は(その報に接したときに部屋で)一人であることに感謝した。この広大な海で日本は強力で、我々はどこでも、弱く無防備であった。」と言っている。

 日本にもチャーチル信奉者がいるが、あの人の良さそうなオヤジにだまされては行けない。チャーチルは日本人を東洋の臆病なサルと呼んでいた。そして海戦前後にはアメリカのルーズベルト大統領と「シナやその他の東洋諸国は良い。あのイエロー・モンキーだけは許せない!」と息巻いていたのである。

彼らは人種差別の権化で東洋人などは人間と思ってはいない。そうでなければ東京爆撃や広島の原爆があるはずもない。

ところで、チャーチルは気を取り直し、その日の内に議会で報告した。ラジオはイギリス全土に放送し、新聞もその日の夕刊に一面トップでマレー沖の奇跡を報道した。ドイツは自分たちがソ連に攻め込んだのに日本が参戦してくれないので、イライラしていた。だからこの2隻の戦艦の撃沈は大いにドイツを勇気づけた。

 しかしヨーロッパ人は執念深い。戦争が終わってから3年後の1948年。水泳の古橋、橋爪が揃って未公認世界新記録を出したのを知って、イギリスは二人のロンドンオリンピックへの参加を認めなかった。その時の通達の最後には「われわれはプリンス・オブ・ウェールズを忘れない」とあったと言う。

 【余談】
このマレー沖の奇跡の立役者の一人、英東洋艦隊を発見した歴史的電信を売った帆足少尉は翌年3月台湾沖で戦死した。戦場とはかくのごときもので、戦場では死ぬこと以外にはない。戦場での原則は「生きるか死ぬかではない。何分で死ぬかだ」といわれるが、功績のあった帆足少尉もこの運命からは逃れられなかった。

合掌。

第15回 終わり