第四話 日本はなぜ勝ったか
常勝日本の謎を解くシリーズの第三弾は日本海海戦である。第一話は決戦の前夜の状態、第二話は決戦、第三話は戦略考、そして第四話は日本がなぜ勝ったかについての解析である。今回はその第四話で、これで日本海海戦の一通りの解析を終わる。
1. 巷間の評価
まずは、巷間、勝因と言われる「敵前大回頭・丁字戦法」と東郷平八郎について解説を加える。
東郷平八郎は薩摩藩の出で、少年のときに例の薩英戦争に従軍し、幕末の動乱期には薩摩藩の軍艦「春日」に乗船して函館戦争の経験もしている。バルチック艦隊のロジェストミンスキー大将は官僚で海戦の体験はなかったが、東郷は実戦を体験していた。
次に、丁字戦法であるが、縦一列に並んで進む敵艦隊に、日本の漢字の「丁(てい)」の字に並ぶ。つまり、敵の先頭艦の前にでて、我が身を晒す戦法である。この戦法は得失がある。不利なのは、敵は進路をふさぐように旋回してくる艦隊をジッとねらい打ちできることで、その時に打ち損じると、こちらの先頭艦が一斉に十字砲火を浴びせられるという次第になる。
もともと艦隊というのは一列で進むのが常であるから、先頭の艦がやられてしまうと、艦隊の列は用をなさない。この丁字戦法は日本海海戦の大勝利で有名になり「トウゴウターン」と呼ばれているが、戦法はすでに日露戦争前に考案されていた。東郷平八郎がウィトゲフ少将率いる旅順艦隊を相手に3回試み、3回とも失敗していて、ウラジオ艦隊を相手に第二艦隊司令長官の上村彦之丞中将が一度成功しているだけである。いわば、失敗続きの作戦であった。
それを思い切って日本の浮沈を賭けた海戦で東郷が使った。それには勝敗を度外視した東郷の心中が推察できんこともない。日本海を北上する敵艦隊と南下する日本艦隊がすれ違いの形で撃ち合っても、撃ちもらした敵艦船はそのままウラジオストックに逃げ込むだろう。それを許せないとすれば、「肉を斬らせて骨を断つ」とばかり腹を決めたと考えられる。だが、そのあまりにも奇抜な戦術と目覚ましい戦果で、日本海海戦といえば「トウゴウターン」となった。
第三回に少し触れたが、日本海海戦の100年前、1805年にスペイン・フランス連合艦隊33隻とネルソン提督率いるイギリス艦隊27隻がトラファルガー沖で一戦を交えている。このトラファルガーは大型の帆船同士決戦としては最後の海戦であった。そして、ネルソンがちょうど東郷と反対の作戦でこの海戦を戦っている。
スペイン・フランスの大艦隊が堂々と一列縦隊で横切っていくのを、その艦隊の中央を狙って突破をはかったのだ。先頭のイギリス艦は集中攻撃を浴びる。事実、指揮をとったネルソン提督は敵兵の狙撃にあい戦死した。この合戦は世界史上、まれに見る大勝利と言われネルソン提督は死に、スペイン・フランス連合艦隊が失ったのは総勢33隻のうちで22隻であった。だから、日本海海戦の38隻で34隻と比べると日本海海戦の勝利がいかに圧倒的であったかがわかる。
しかし、人間の集団というのは難しいもので、このような圧勝がかえって災いをもたらした。日本海海戦に慢心した日本海軍は「海戦で日本軍が負けるはずはない」などと筋違いな考えが支配的になり大艦巨砲主義が海軍の主流となって、やがて戦艦「大和」の建造につながった。
戦艦大和の主砲が一度も火を噴くこともなく沖縄出撃で沈んだのは実に残念だったが、それには東郷以来の深い因縁がある。
次に、政治を見てみよう。
政治を中心にこの日本海海戦を考えると、日英同盟、ロシア帝政の弱体化、日本人の精神的努力などが上げられ、また、日本海軍が計画的に戦艦を発注してきたという計画性も勝利に寄与してる。
日本海軍は日露戦争の前に戦艦6隻、巡洋艦6隻を持っていたが、財政に四苦八苦しながらも、イギリスのアームストロング社に計画的な戦艦の発注を行ってきた。たとえば、日本の連合艦隊の艦の速度はみな15ノットに揃えられていた。
艦隊は全艦が一緒に行動するので、どれかが速くても意味はない。日本艦隊がバルチック艦隊の前で180度旋回して、丁字戦法を取ることができたのも速力がそろっていたことが上げられる。
事実、バルチック艦隊は18ノットを出せる最新鋭高速戦艦を5隻も持っていたが、12ノットの旧式戦艦、10ノットの輸送船も随行していた。その結果、バルチック艦隊全体の速度は実に9ノットだったのである。
水雷艇という小艦船を上手に使ったアイディアも日本海軍のものだった。それまでの海戦の常識では、そんな小さな船が海戦に役立つはずもないということだった。つまり、巡洋艦からの一発で簡単に沈没したので、沿岸警備しかできないと考えられていた。
日本軍はそれを艦列に組みいれ、戦闘能力が無くなったロシアの戦艦や巡洋艦にハイエナのように食いつき魚雷を発射、夜陰に紛れて逃げるバルチック艦隊の多くの艦船が、水雷艇や駆逐艦にやられた。
そして、かの東郷平八郎は明治天皇に次のような奏上をしたと言われている。
「ロシア本国より新来の敵艦隊に対しては、誓ってこれを撃滅し、陛下のお心を安んじ奉ります」
そして、全軍を一艦隊に集め、日本の海岸線をすべて空にして決戦に望む、そして肉を切らして骨を切るという丁字戦法だった。必死の覚悟がかの奇跡的勝利に結びついたという考えも、あながち見当はずれではない。
しかし、著者はこの勝利はもう少し具体的なところにあると考えている。それを射撃と火薬という視点から整理をしてみる。
2. 射撃
アメリカの新聞が予想したように、海戦の勝敗は戦艦の主砲が決め、戦艦の数は日本軍が4、ロシア軍が8と二倍の差である。つまり、当時の戦艦に装備される主砲の数は同じだから、主砲の数もロシア艦隊が日本艦隊の2倍。勝敗は決まっている。
もともと、海戦は陸上の戦闘と違い、戦場の見通しは良いし、味方と敵の艦隊は並行に航行しながら砲撃を行う。仮に丁字戦法が成功しても2倍の砲撃力に勝つわけはない。
それに、陸上の戦闘では兵士の戦闘力が問題になるが、一流の艦隊ともなれば主力戦艦の主砲には優れた士官がついている。砲撃では兵は砲弾を込めるだけであるから実力は発揮しにくい。
日本海軍は考えた・・・
大砲の数が半分以下、実力はおなじ。それで勝とうと言うことはどういうことか??参謀は考えに考えた。そして、射撃と射撃の間隔を詰めれば良しということで、まず砲弾を込める訓練を日夜、行なう。これには、真面目で身分の差がない日本人の特性が存分に活かされた。
訓練ばかりではない。「下瀬火薬」というものが出現した。それまで使っていた黒色火薬は炸裂すると、もうもうと黒い煙が充満して次の砲撃に移れない。下瀬火薬はクリーンだから、すぐ打てる。
かくして、開戦前夜の日本艦隊の射撃速度はロシアの3倍になっておった。バルチック艦隊との主砲の数の劣勢、2倍を射撃速度で跳ね返し、日本艦隊が逆に1.5倍だった。
連合艦隊の参謀・秋山真之中佐は、
「三笠以下主力の12艦は、いずれも我が海軍の当局者が多年の惨憺たる経営に依りて製艦されたるものなるが、しかも之を用ゐるは主として僅々30分の決戦にてありし。吾人が10年一日の如く武術を攻究錬磨しつゝありしも、亦此の30分間の御用に立つ為なり。されば決戦は僅かに30分なるも、之に至らしむには10年の戦備を要せしものにて取りも直さず連綿10年の戦争なり。」
として、主砲の方向を定める士官の訓練を繰り返し、日本海開戦時には日本の射撃の命中率はロシアの3倍と推定されている。
確かに日露戦争が起こる前の小競り合いで命中率が詳しく検討されているが、東郷はロシア軍が砲撃を開始した距離8,000㍍ではほとんど命中の可能性が低いと見ていた。
会戦後のイギリス国の批評にも、ようやく日本を見直す評も出てきている。
「日本人は海軍に関するものはことごとく西洋の指導を仰いでいるが、その一方で、自分たちで新機軸を出し、艦隊の編制も独自のやり方を編み出している。大体において日本人が自ら工夫したものであることも指摘しなければならない。」
射撃速度は3倍、命中率も3倍とすると、日本艦隊の主砲の数がロシアの半分だから、実効射撃量は4.5倍という計算になる。勝利とはこのように紛れのないものではないだろうか?たしかに、政治的な動きや、精神論や、丁字戦法万能説、東郷平八郎神話まであるけれど、戦いの勝敗はもっとハッキリしたものが支配する。
「日本海海戦の勝因は?」との質問には、
「実効射撃量が4.5倍だったから」
と答えることができる。
3. 下瀬火薬・伊集院信管・榴弾
東京山手線の北の方、駒込、巣鴨の北方に東京外国語大学が聳えている。1811年、徳川幕府は「蛮書和解御用」を開き、それが明治維新とともに開成学校、そして東京外国語学校をへて新制の大学として東京外国語大学が誕生した。
そして、その地こそ、かつて日本海海戦を勝利に導いた下瀬火薬製造所があった場所である。今では、大学の敷地を右に巻きながら登る坂を「下瀬坂」と呼んでいる。
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下瀬火薬が発明されるまで、日本はもとよりヨーロッパ列強も戦艦の主砲火薬には黒色火薬が使用されていた。この黒色火薬とは硝酸塩、硫黄、木炭からなる火薬でおおよそ、75:10:15で、火つきがよく取り扱いやすい。いまでは花火の打ち上げに使われている。
ところで、戦艦の主砲に使われる爆薬は「炸薬」と呼ぶ。そして砲弾が目標に達した時、信管によって爆発する。炸薬に使われる火薬は燃焼の伝達速度が非常に高いので、爆薬の範疇に入る。
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(下瀬雅允)
日露戦争の少し前、下瀬雅允は広島県で誕生した。藩の学問所、広島の外国語学校から、現在の東京大学工学部の前身である工部大学校で化学を専攻し、1887年に海軍兵器製造所へ移って火薬の研究を始めた。きわめて優れた学生で、しかも努力家であった下瀬はまもなく黒色火薬より格段の爆発力を持つ化合物の存在に気づき、トリニトロトルエンを主成分とする火薬を作り出した。
そんな強力な爆発力があるなら世界中どこでも使うはずである。しかも、主成分のトリニトロトルエンは石炭から採れるフェノールをニトロ化すれば簡単に得られる。石炭が採れる国なら容易に作れると思うが、技術とはそういうものではない。
この炸薬は、爆発速度は7,350m/sec、発火点320℃、エネルギー/質量比4,186kJ/kg、爆発生成ガス容積0.675m3/kgという素晴らしい性能が仇になった。不意に爆発するし、毒性が強く、真っ黄色である。下瀬火薬を製造する工員を「カナリヤ」と読んでいて、全身真っ黄色になって作業していたらしい。
工学とか技術とかいうものは「本来、そもそも」という理屈も大切ではあるが、「それをどう使うか」という理想と現実とのギャップを丁寧に埋めることでもある。下瀬は「理屈では素晴らしい爆薬」を「使える炸薬にした」ということで、日本人の技術力の秘訣がここにある。
下瀬火薬は1893年に海軍の正式火薬に採用されたが、危なくて相性の良い信管もなく日清戦争では使われずに終わった。そこに、伊集院五郎の「伊集院信管」が登場してやっと日本海海戦に間に合ったのである。
下瀬火薬はガスが3,000℃という高温になり戦艦の鉄板に塗ったペンキに引火したのも予想外の効果になった。これがバルチック艦隊の旗艦スワロフの司令塔に命中したから堪らない。その猛烈な火力に士官や兵士が戦闘意欲を殺がれたとも言われている。
また、砲弾の工夫もあった。
それまでの砲弾は戦艦の外側の装甲を貫いて内部に入り炸裂することが第一とされていた。当然、バルチック艦隊の砲弾もそうだったが、日本海軍は「榴弾型」、榴弾が炸裂すると、そのカケラが飛び散り、兵士はちょうど機関銃でなぎ倒されるように死ぬ方式だった。
つまり、日本海海戦の勝因は、「砲弾が多く」「威力が高い」という点で、彼我の差があったものと考えられる。
つまり、「打撃の大きい方が勝つ」という当然のことだったが、ロシア艦隊は日本軍からの最初の一撃で驚天動地、全く驚いた。砲撃は正確、速度は速く、そして爆薬は激しい。戦端を開いた瞬間、バルチック艦隊の士官はビックリしたに相違ない。
第12回 おわり