日本海海戦

第一話 決戦の前夜



 常勝日本の謎を解くシリーズの第三弾は日本海海戦である。第一話は決戦の前夜の状態、第二話は決戦、第三話は戦略考、そして第四話は日本がなぜ勝ったかについての解析である。

1.  決戦の前夜

それは明治も終わりのころ、1905年に遡る。

ロシア皇帝ニコライ二世の命令ではるばる北海からヨーロッパ、アフリカ、そしてインド洋からフランス領、インドシナ沖に出たロシア・バルチック艦隊の司令官ロジェストミンスキーは、最終目的地のウラジオストックにたどり着くコースに頭を痛めていた。インドシナから北上してそのまままっすぐに対馬海峡を通れば早いが、日本海軍が待ち伏せしているのは間違いない。

いや、もともとはるばる北海から日本海軍と一戦を交えようと地球をグルッと回って来たのだから決戦の望むのは当然であるが、長い旅路で兵士は疲れている。祖国を前にした航海の最後に一戦を交えるのは得策ではない。ウラジオストックで一服して、旅巡港に閉じこめられている残存部隊とも連絡をしてから戦端を開きたいと将軍は考えていた。



北海・リバウ港を出撃するバルチック艦隊


旅順艦隊といえばバルチック艦隊が北海のリバウ軍港を出港した時には健在。それゆえ、北海からの艦隊と一緒になり日本海軍を壊滅させるというのが当初計画だった。ところが航海の途中で、乃木将軍率いる日本第三軍が突撃に突撃を繰り返して屍の山を築き旅順要塞を落とした。

たちまち旅順艦隊の5隻の戦艦、装甲巡洋艦バヤーン、防御巡洋艦パルラーダなどの僚艦は旅順港を見下ろす丘からの砲撃で沈没してしまった。ロジェストミンスキーの心は晴れなかったのである。 

日本が満州でロシアと戦うにはともかく海をわたって日本兵を大陸に運ばなければならなかった。そして日本はすでに陸軍の大軍を満州に上陸させていたので、ここで日本海軍を壊滅させたら陸軍はたちまち大陸で孤立し物資も兵隊の補給も行なえない。それは軍の壊滅を意味し、日本国自体が沈没する。バルチック艦隊を北海から地球を一周しても日本海に向かわせロシア皇帝の心中はそこにあった。

つまり、日本は存亡の危機にあったのである。

フランス領インドシナ、今のベトナム沖のロジェストミンスター将軍は次のように考えたのだろう。
「日本近海の洋上で石炭を補給することは困難だ。だが、津軽海峡や宗谷海峡を通ってウラジオストックに行くには石炭が足りぬ。しかも津軽海峡は幅が狭い。日本は機雷に触れるのも間違いない。宗谷海峡は濃霧が出やすいから大艦隊は無理だろう・・・」


(バルチック艦隊航路と寄港日)



ロシアが日本に圧勝してヨーロッパで強い力を持つのを警戒したイギリスがバルチック艦隊の航行に非協力的だったことは有名である。それも司令官には辛いことだった。

しかし、迷いは日本の司令官東郷平八郎も同じであった。5月14日にはバルチック艦隊がフランス領インドシナの港を出港したとの情報があったまま行方不明となっていた。ルソン島沖を通過したとか、北に向かったとも噂が流れ、何しろ広い海に出たロシア艦隊の航路は庸として定まらない。

東郷平八郎は5月24日午後2時15分、日本軍の中枢、大本営に打電し、自らの艦隊に北進を命令する「密封命令書」を交付した。
「敵艦隊は北海道方面に迂回したと考えられる。連合艦隊は速度を上げて北海道・松前町沖に移動する。」
この電報を見て、大本営では伊東軍令部長や参謀は、
「敵艦隊は10中8,9は対馬海峡を通過する。早まるな!」
と返電した。後に軍神になるほどの人でも待つ身は辛い。判断はそれほど正しくはなかった・

翌、25日の午前、日本の連合艦隊の首脳部は旗艦「三笠」の艦上では軍議が開かれていた。東郷は直ちに艦隊を北に向けて発信したいと言うが、第二艦隊参謀長の藤井較一大佐、第二戦隊の司令官・島村速雄少将は敵が対馬海峡を通過すると主張して譲らない。そこで、東郷は翌日の26日の昼まで艦隊を九州沖に留めることにした。

東郷は焦っていた。もし、ここでバルチック艦隊を取り逃がしたら、陸軍は大陸に置き去りになり、そのまま日本は崩壊する。その焦りが東郷をして迷わせた。人間は弱い。日本では楽しみでやる将棋ですら「岡目八目」という。たかが将棋でも勝負をしている当の本人は次の一手を間違う。欲と不安は目をかくのごとく曇らせる。

その日、東シナ海から日本南部一帯は朝から大型の低気圧に襲われ、風雨は強く北西の風が吹き荒れていた。日本という国は国難と風が深い関係にある。蒙古襲来の時の神風はつとに有名であるが、幕末の薩英戦争の時も、イギリス軍が鹿児島湾に侵入した途端、暴風雨になり、イギリス軍は視界を失っっている。そこを射程わずか1キロの薩摩藩砲台が狙いすまして射程4キロの主砲をもつイギリス艦を攻撃して命中させたことがある。

日本は何とも嵐が好きな国のようである。

ともかく、荒天をついて片岡七郎中将が率いる第三艦隊がバルチック艦隊を捜していた。仮装巡洋艦「アメリカ丸」「佐渡丸」「信濃丸」「満州丸」が五島列島の西、「秋津洲」「和泉」が東。そして、「信濃丸」の艦長、成川揆大佐が真っ暗な海上になにやら光るものを発見。目を凝らしてみると三本マストの二本煙突の巡洋艦らしいが300㍍まで近づいてみると大砲もない。


(バルチック艦隊を発見した信濃丸艦上)



夜は白み始めていた。目を左に向けると、朝靄の向うに十数本の煙が立ち上っている。成川大佐は驚愕した。信濃丸はバルチック艦隊の真っただ中に紛れ込んでいた。ただちに、
「敵艦ラシキ煤煙見ユ」
と発信した。5月27日午前2時45分であった。


(東シナ海を航行するバルチック艦隊)



この無線を受信した「和泉」が現場に移動、午前6時45分、モヤがかかる向うに敵の大艦隊を発見したのである。視界は10,000メートル、「和泉」の艦長の石田一郎大佐は敵艦隊と並進しながら情報を第三艦隊司令部に送っている。

 この瞬間が日本にとって歴史的な瞬間であったことは明らかである。このときバルチック艦隊を取り逃がしていても、その後の歴史がどのように変ったかは別にして、ともかく、日本軍の努力が少しずつ良い方向へと進んでいた。

第9回 おわり