第四話 -礼誠勇仁義-
常勝ニッポンの謎を、特に直接的に勝利を誘った戦闘行為の他に、技術、社会システム、文化など多様な要因があることをすでにこれまでに言及した。
しかしその底に潜むものはやはり「大和魂」であろう。その大和魂とはなにか、それは江戸時代の終わりと共に失われてしまったものであり、それでも現代の日本人に生き続けているものである。
幕末の描写を終わるにあたって、礼(他人に控えめで他人を尊敬すること)、誠(誠実でなければ屍であること)、勇(人間として生きるには勇気が必要なこと)、仁(もちろん、愛)、そして義(これが一番難しく、かつ日本人の本質でもある)に触れたいと思う。
すでに里見八犬伝があり、武士道があり、礼誠勇仁義は語り尽くされているとも感じる。それでも常勝ニッポンを語る上で欠かすことはできない。
1. 礼
日本の近代柔道の開祖、嘉納治五郎は柔道を単にスポーツとして捕らえるのではなく、人格を磨く鍛錬として考えた。
嘉納治五郎の言葉として残っているものに、「自他共栄」というのがあり、また
「柔道は、技を覚えるだけでなく、これによって鍛錬された心身を持って、学者、官吏、商人、軍人らの何なりとも、国民としてなすべきことを自ら選んで当たることである。」
とも伝えられている。
嘉納のこのような柔道に対する考え方は後に日本の武道全体に影響を及ぼし、海軍兵学校の武道に関する十訓にも良く現れている。
十 訓
(一)武技を練ると共に気力の鍛錬に努べし
(二)礼節を重んじ規律を守るべし
(三)試合中は真剣対抗と心得寸時も油断あるべからず
(四)常に気力を充実し敵の肝を奪うの気勢あるべし
(五)常に攻勢を取り守勢に陥るべからず
(六)機を見ること敏にして常に機先を制すべし
(七)攻撃は勇猛果敢にして躊躇逡巡すべからず
(八)敵の攻撃に動ぜざるの胆力と屈せざるの忍耐沈毅の気象を養うべし
(九)態度姿勢に注意し高潔なる気品の養成に努べし
(十)武技の練達及び心的鍛錬は裡自得に依り達成せらる専念工夫を要す
私たち日本人は、子どもの頃からなんとなく武道の考え方を学んでいるので、武道が礼節を求めることを知っているが、世界的には必ずしもそうでもない。
アテネオリンピックの柔道を見ていると、審判が外国人の服装の乱れや試合が終わった後の挨拶をさせるのに苦労していた。多くの国の人にとってはすでに勝敗が決まっているのに、相手に挨拶をしなければならないことなど考えられないかも知れない。
国技と言われる相撲でも、勝っても土俵上で喜んではいけない。それは負けた相手に対する礼儀でもある。
日本の多くの伝統的武道、芸術、学問や生活で「礼」を重んじるものは多い。「礼」は力である。私はこの「礼」を現代の大学教育に入れることはできないかと考えて、少し活動をしているが、現在の教育は「形になった学問」だけに絞っているので、「礼」の教育を入れることが難しい。
ヨーロッパの大学をモデルにしている現代の日本の大学は「礼」を重んじると、学問の自由が無くなると考えている。
2. 誠
日本の歴史上の人物で「誠」を貫いた武士を挙げるのはそれほど難しくない。山本周五郎の短編は誠を貫いた人物が登場し、津軽弘前藩の毛内監物を挙げればそれで十分かも知れない。
しかし、武士はもともと命を捨てていて、誠は命との交換だから武士の誠はいわば当然の成り行きかも知れない。その点では武士ではなく歴史に残り、かつ誠というとなかなか該当する人材はいない。
おそらく江戸時代までは百姓にも職人にも誠を貫く人材は山といただろうが、それらの人は歴史に名を刻んではいない。
そこで、ここでは一風変わっているが良寛を誠の代表者にあげる。これには異論があるだろう。良寛は大きな地主の家に生まれ、いわば役立たずとして家をでて出家した人物である。
出家して国仙和尚に師事した後も、それほど顕著な功績を挙げたわけではなく、また誠を取るか出世を取るかという厳しい選択を迫られたこともない。
むしろ良寛の人生は気弱な人の逃げの人生だった。老人になり山奥の生活に耐えきれず里の名家に収容され、子どもと遊ぶ毎日だった。そして老いらくの恋もあった。
しかし、良寛が気の弱いダメな人物であり、仏門でもものにならず、子どもと遊び、あげくの果てに老いらくの恋に陥っただけなら、良寛は必ず歴史の中に埋没しているに違いない。
なぜ良寛は歴史にその名をとどめたのだろうか?やはり良寛の人生そのものに「日本人が理想としている人生の誠」を感じるからだろうと思う。
その誠は武士が示す誠とは少し違っていて、もう少し緩やかなものであることは確かであるが、やはりある誠の姿と私は思う。
良寛は出家して国仙禅師に師事した後、行脚を通じて当時の仏教界の深いに落胆して隠遁した。山奥にすみ、60代後半になって体力が落ち、世話をしてくれる人の住まいで子どもと遊びながら一生を終えた。
生涯、身を立つるに懶(ものう)く
騰々、天真に任す
嚢中、三升の米
炉辺、一束の薪
誰か問はん、迷悟の跡
何ぞ知らん、名利の塵
夜雨、草庵の裡
双脚、等間に伸ばす
良寛の誠は武士の誠のように厳しいものではないので、取り方によっては「甘えている」と見えるが、良寛が広く日本人に尊敬されているのは良寛の行動に誠を感じるからである。誠とは武士の誠のように命をかけるものだけではない。
3. 勇
江戸末期には欧米から断続的に日本に攻撃が加えられた。長州が攻撃を受けた四国戦争、それに生麦事件がきっかけになった薩英戦争である。
このような日本の危機に我が身の危険を顧みず、日本の将来を見据えて行動した2人の武士がいた。
一人が、勝海舟、そして西郷隆盛、彼らの仕事は江戸城無血開城だった。
鳥羽伏見の戦いに破れた将軍・徳川慶喜は江戸に逃げ帰ってから、政務を勝海舟に任せて上野に引っ込んだ。もう、こうなっては地位も歳も関係はない。全ては非常時なので、幕府の中でもっとも優れていた勝を使う他はない。老中以下、それを同意した。
勝は慶喜に恭順を説いて主戦派を抑え、徳川内部をまとめていった。アジア、アフリカ、南アメリカを我がもののように植民地にしていた欧米列強は、日本が内戦で疲弊するのを待って占領するつもりだった。
3月9日、勝海舟の命を受けて、山岡鉄舟が駿府に出向いて東征軍参謀・西郷隆盛に面会した。その時、勝海舟が鉄舟に託した書状には、
「主人恭順している。なれど不貞の輩反逆の兆しあり。無頼の徒の反乱を許すや、日本は滅亡せん。」
という意味のことが書いてあった。
当時、皇軍は徳川幕府より武力に優れていたので、東征大総督府は、
「慶喜は備前藩お預け、江戸城開場、徳川家の武装解除、鳥羽伏見の戦いの処罰」
を迫った。
これを聞いて江戸城内はまた主戦に傾く。そして東海道を迫る東征大総督府はさらに勝ち組だから強硬だ。
歴史を勉強すると、さして戦争をする必要の無いときでも、この時の皇軍と幕府軍のように、戦力が勝っている方は戦えば勝てるのでどうしても傲慢になり、負ける方はもともと負けそうだということだけで屈辱的なのに、相手が居丈高にくるので、余計に意地になり、その結果、戦争となる。
しかし、いったん戦争となれば多くの人が死ぬ。
このときも、皇軍は江戸に進撃し、江戸の町は大混乱になった。歴史的に名高い勝海舟と西郷隆盛の会談はそんな雰囲気の中で始まったのである。
西郷隆盛から皇軍が作った厳しい徳川処分案に勝海舟が抵抗する。こんなものがでれば幕府の主戦派を勢いづけるだけである。そこで勝海舟が手を加えて、歎願書という形にした。
勝海舟はもし皇軍が将軍の嘆願書でも納得しないなら一戦に及び、江戸の町を焼き払うことになるだろうと西郷隆盛に迫った。
西郷隆盛は迷いに迷い、ついに勝に同意した。ここは勝海舟の方が肝が据わっていたらしい。西郷は会談を終えて陣に帰り、薩摩藩士・村田新八、後の桐野利秋に攻撃中止を命令したのである。
しかし、西郷隆盛も大したものである。勝ち組にいて決しておごらす、終始、坐を正して手を膝の上にのせ、会談に臨んで終始、誠実だったと勝海舟が後に執筆した「氷川清話」にある。
歴史の転換点には豪傑が出現する。それは勝海舟や西郷隆盛だけではない。幕府の代表として駿府まで交渉にいった山岡鉄舟もその一人だった。
駿府にいる西郷隆盛に会いに行くには途中の官軍を突破しなければならない。交渉団といっても昔のことだから、血気盛んな前線の敵に斬り殺される危険性が高い。
そこで、
「朝敵、徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総提府へまかり通!」
と叫んで通った。
時には当時48才だった街道筋の親分・清水の次郎長に道案内を頼み、そのようにして駿府への道を進んだ。
日本史上、有名な勝海舟と西郷隆盛の会談が成功したのは、この2人の人間の大きさに帰せられる。しかし、会談が成功したのは勝海舟の論理の力と思う。
古から戦いは最後まで力を尽くして決めてきた。しかし、よくよく考えてみると勝負がついているのに敢えて戦うのは「私」(私情)であって「公」(社会の為)ではない。
一方、政治はあくまで「公」のみで行うべきであり、すでに負けが決まっている徳川を皇軍が攻め滅ぼし、あるいは処罰するのは「私の行為」であり、処罰なしに無血開城を受け入れるのが「公の見識」である。それで初めて日本は外国からの干渉を避け、独立することができる。
勝海舟はこのような論理で、この会談に臨んだ。そして西郷隆盛も「私」と「公」のこの論に心打たれたのである。
勝海舟は熱き血を持ち、冷静な論理力を備えていた。このような人材がいたからこそ日本は欧米の餌食にならなかった。もし勝海舟が論理を立てるのに失敗し、皇軍と幕軍が生死をかけて首都江戸で戦えば、それをジッと見ている欧米列強は直ちに日本全土を植民地にするか、そこまで行かなくても九州の割譲ぐらいは求めてきたと思われる。
「勇」とはこのようなことを言うのだと私は思う。国の為に身を犠牲にできること、官軍に帰れば勝つ戦を妥協してきたと非難されることを承知で飲み込むこと、それができることが日本人の「勇」である。
4. 仁
「仁」には鎌倉時代の僧侶、栄西を選ぶことができる。
示に云く故僧正建仁寺に御(おわ)せし時、独(ひと)りの貧人(ひんにん)来って道って云く、「我が家貧にして絶煙数日に及ぶ。夫婦子息両三人飢え死にしなんとす。慈悲をもて是れを救ひ給へ」と云ふ。
その時、房中に都(すべ)て衣食財物等無りき。思慮をめぐらすに計略尽きぬ。時に薬師の仏像を造らんとて、光の料に打ちのべたる銅、少分ありき。これを取って自ら打ち折つて束円めて彼の貧客に与えて云く「是れを以て食物をかへて、餓を塞ぐべし」と。彼の俗、悦びて退出ぬ。
門弟子等歎じて云く、「正しく是れ仏像の光なり。以て俗人に与ふ。仏物、己用の罪如何」。
僧正答へて云く、「実に然るなり。但し、仏意を思ふに、身肉手足を分って衆生に施すべし。現に餓え死にすべき衆生には、直饒(たとい)、全躰を以て与ふとも仏意に叶ふべし。また我れこの罪に依って縦(たとい)悪趣に堕すべくとも、ただ衆生の餓えを救ふべし」と云々。
これは道元が表した正法眼蔵『随聞記』巻三、第二節に載せられている有名な逸話である。
仏門は苦しむ衆生を救うために存在する。だから、大切な仏門の財産であっても苦しむ衆生を救うためには惜しげなく使うのが仏の心である・・・当たり前のことでも人間にはなかなかできるものではない。
でも栄西という僧侶についてはそれほど「仁」という言葉が相応しくないとも言われる。名誉欲が強く、不見識な行為も多かったと言う。しかし、道元がそれらを知ってもなお栄西を評価したことを考えると、栄西という人物全体としては立派であったと考えるべきだろう。
良寛、栄西、勝海舟・・・多くの歴史上の人物が時代と共に現実を離れて賛美されることはままあることである。それは時間と共に人間の心が求めている人物へと変質していくからである。
だから栄西の行動を「仁」の例としてあげるのが適当だと私は思う。
5. 義
「義」は忠義、義理などの義であるが、礼・節・勇・仁などと比べると、その概念をつかむのは難しい。ある時には素晴らしい力を発揮し、ある時には冷静に考えると犬死を求める。
だから「義」の例を挙げるのは難しいが、人物の代表者はいる。吉田松陰である。松蔭についてはこのホームページの「吉田松陰」を見て欲しいが、ここでは彼の激烈な心をかいま見ることにする。
「生死を超越しても残るは、なお祖国の運命である。余は入江杉蔵にあて祖国永遠の運命を託すべき人材を養成すべく尊攘堂と学習院の建設・振興を依頼し死を待つ。」
安政六年、齢三十で獄死。辞世の句。
・・・・・
吾今国の為に死す 死して君親に負かず
悠々たり天地の事 鑑照明神に在り
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
留置かまし大和魂
・・・・・(安政六年十月二十七日 口吟)
もし、現代の日本人が礼誠勇仁義を思い出し、それを教育に活かし、そして日常生活やビジネスで活用することができれば、日本人はその裕福な生活に応じた尊敬を世界から得ることができ、つまらない諍いや不祥事の多くが退治されるだろう。
日本はそれほど優れた精神的文化を引き継いできたが、ヨーロッパの学問と工業を中心とした富の為に捨てた。実に残念である。
常勝ニッポンの謎の一つに、この精神的文化があることは間違いない。
第8回 終わり