明治維新
第三話 -江戸末期の庶民像-
中世から現代に至る途中の時代を歴史的には近世とか近代という。厳密な区分は歴史学に委ねるとして、人間の精神がある抑圧下にあったと中世を考えると、それからの解放、そして産業革命を中心とした経済活動の拡大の過程がそれである。
大航海、宗教革命、産業革命、資本主義、自由主義、そして民主主義など現代の社会が徐々に形づくられていった。
その時代、ヨーロッパと日本はどのような差があったのだろうか?歴史は王朝を中心に描写するが、ここは庶民に焦点を当てたい。時代は19世紀の半ばである。
1. ヨーロッパの庶民生活
1845年.エンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」
【産業革命以前のイギリスの織布工】
・・労働者は全く快適な生活を楽しみながら、のんびりと暮らし、極めて信心深くかつまじめに、正直で静かな生活をおくった。かれらの物質的な地位は、その後継者の地位よりもはるかによかった。彼らは過度に働く必要はなく、彼らはしたいと思った事以上はしなかったが、それでも必要なだけは手に入れていた。・・・
淡野安太郎さんが著述した本の中にゲルマン社会の様相が描写されている。
ある時、麦の刈り取り方法に革新的技術が誕生し、それまで1エーカーを刈り取るのに1時間かかっていたのが45分ですむようになった。 そこで地主が麦刈りの労働者に、
「この技術を使うと、今まで4時間で4エーカーだったのが、5エーカー近く刈り取ることができる。だから新しい技術を入れることにする。そしておまえたちの賃金もその分、増やすぞ」
地主は当然労働者が喜ぶと思っていたら、
「旦那さん、わしらはお金は今のままでいいんで、3時間ほど働かせてもらえませんか?」
これを聞いて地主は、
「おまえたち、お金は欲しくないのか?」
と聞く。ここまでは当たり前の会話だが、この後がビックリする。
「わしらは今のお金で生きていくことができます。これ以上お金をいただいても、生きていくのには何にも変わりません。でも働く時間が少なくなれば、それだけ長く楽しむことができます」
そこで地主は説得の方向を転換する。
「でもおまえたち、余ったお金を貯めておけば、街に行って楽しい思いをすることができるぞ」
小作人、
「せっかくですが、旦那さん。あっしらもおあしをもらって街にいって遊ぶのは好きですが、貯めたお金では楽しめません。たまにお殿様から下賜のご褒美をいただいたときなら楽しいのでがんすが・・・」
この話は実に含蓄が深い。まず、生きていく上で必要なお金があれば、それ以上のお金をもらうより時間があったほうが良いというのは、私たちが忘れてはいるが当然である。
でも第二弾の話は奥が深い。私たちは貯金してお金が貯まったらそれで遊ぼうとする。でも貯金するときの苦しさを知っているとお金を使うのがもったいなくて心から楽しめない。ところがあぶく銭なら気前よく使える、遊ぶのならあぶく銭でなければ楽しくないというのである。
産業革命以前のまっとうな人間像を見ることができる。ヨーロッパも学問が発達する前はそうだったのである。
【産業革命以後のイギリス労働者】
される。」
「貧民には湿っぽい住宅が、即ち床から水があがってくる地下室が、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。貧民は粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化の悪い食料が与えられる。貧民は野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。貧民は性的享楽と飲酒の他には、いっさいの楽しみを奪われ、そのかわり毎日あらゆる精神力と体力とが完全に疲労してしまうまで酷使される。
産業革命後のヨーロッパは様変わりする。力を得た社会は力が全てだから弱いものを征服する。産業革命はヨーロッパ人を鬼畜にしたのである。
2. 江戸時代末期の日本
……イギリス大使オールコック
「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらの良く耕作された谷間を横切って、非常な豊かさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見て、これが圧制に苦しみ、過酷な税金を取り立てられて窮乏してる土地とはまったく信じられない。むしろ、反対にヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民は居ないし、またこれほどまでに穏和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった。気楽な暮らしを送り、欲しいものも無ければ、余分なものもない」
……カッテンディーケ
「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心をもたないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。」
・・・不思議なことじゃ。ヴェルサイユ宮殿を見よ。シャムの王宮をみよ。ヨーロッパもアジアも日本以外の王宮はみな豪華絢爛じゃ。そのなかで日本だけが奢侈贅沢をせんかった。「非常に高貴な人々の館ですら」という「すら」は「金があっても」という意味じゃ。それから見ると、今の日本人は大した金もないのに「簡単、質素きわまるもの」ではないのう。
……ハリス駐日アメリカ大使。1857年。
「彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者も居ない。―――これがおそらく人民の本当の幸福の姿と言うものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所為であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
……スイスの遣日使節団長アンベールは自国の職人の回顧と共にこう言っている。
「若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっているのを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きているのを見た。労働それ自体が最も純粋で激しい情熱をかきたてる楽しみとなっていた。そこで、職人は自分の作るものに情熱を傾けた。彼らには、その仕事にどれくらいの日数を要したかは問題ではない。彼らがその作品に商品価値を与えたときではなく、かなり満足できる程度に完成したときに、やっとその仕事から解放されるのである。」
・・・そう「若干の大商人だけ」、「富を持っているくせにさらに金儲け」、そう、金を持つと金が欲しくなる。今の日本人は「大勢が小商人」で、「富を持っているくせにさらに金」は一緒。
……リンダウ。長崎近郊の農家にて。1858年。
「火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子が慌てて火鉢を持ってきてくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰をかけるように勧め、母親は丁寧に挨拶をして、お茶を出してくれる。家族全員が私の周りに集まり、子供っぽい好奇心で私をジロジロ見るのだった。……幾つかのボタンを与えると、子供達はすっかり喜ぶのだった。「大変ありがとう」と皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて可愛い頭を下げて優しくほほえむのだったが、社会の下層階級の中でそんな態度に出会うのは、全くの驚きだった。私が遠ざかって行くと、道のはずれまで送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ「さようなら、またみょうにち」と私に叫んでいる。あの友情のこもった声が聞こえるのである」
……モース「日本人の住まい」・・・これは例の貝塚のモースじゃ。
「鍵を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りをしても、触っていけないものは決して手を触れぬ。」
・・日本人には
「やってはいけないことはしない」
という原則があった。
イライザ・シッドモア。1884年からしばしば日本を訪れる女流旅行家。
「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。……漁師のむすめ達が臑をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。子供らは泡立つ白波に立ち向かって利して戯れ、幼児は楽しそうに砂のうえで転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景総てが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。」
・・・すばらしい笑顔だ。それに比べて最近の東京の山手線はどうだろう。箸が転げても笑うという年頃の女性もしかめっ面で乗っている。ヨーロッパが産業革命によって汚れたように、日本も明治維新に入ったヨーロッパ文化で汚れた。この汚れは退歩であり、前身ではない。
「和魂洋才」は風前の灯火になっている。常勝ニッポンが敗れそうになっているのは、実はこのことにあるのではないか、私はそう思う。結論はまだ先にするが。
第7回 終わり