明治維新
第一話 -永井尚志と長崎造船所-
常勝ニッポンの謎を解きたいと私は思う。どう見ても日本は世界でも特別な国であるが、それを「選民」とか「特別に神の恩寵を受けた民族」などと結論を出したくない。もう少し科学的に論理的に常勝ニッポンの謎を解明し、この混迷した時代の行く先をみたいと思うのである。
そこでまず蒙古襲来から始め、この勝利が「神風」ではなく、日本人の真面目さであったことを明らかにした。そして今回から4話、明治維新を中心として変革期の日本人をつぶさに調べることにする。その第一話は長崎造船所の物語である。
日本では幕末から明治維新にかけて激しく歴史が動いた。そこでは多くの英傑が輩出し、また数奇な運命にもてあそばれたのも当然であろう。
それはまさにトルストイがその著作の中で主題としたことの一つ、すなわち「人間は歴史の中に翻弄される存在に過ぎない」という真理がこの東洋の国でも同じように見いだされたのである。
永井玄蕃頭という切れ者の人生が幾多の波乱を経て函館戦争でいったんは終焉し、そしてまたオランダの蒸気船で復活するという離れ業は歴史の力以外で説明することはできないだろう。
1. 五稜郭
明治2年4月9日正午に、参謀・山田市之充の指揮する1,500人の官軍・第一梯団が蝦夷・江差の北方、乙部に上陸したところから五稜郭の戦いの話は始まる。
官軍の右縦隊は江差から松前へ、中央縦隊は上ノ国から木古内へ、そして左縦隊は厚礼部から大野二股口へと、部隊は五稜郭を目指して春の蝦夷地を行軍したと記録されている。
すでに、江戸幕府は大政奉還によって崩壊していたが、迎え撃つ旧幕府軍は五稜郭に立てこもり、その大将は中央に陸軍奉行大鳥圭介、右翼に陸軍奉行並・土方歳三であった。旧幕府軍のこれらの大将は歴戦の勇士で傑物揃いだったから、緒戦の木古内口、二股口の戦いから暫くは旧幕府軍が優勢のうちに函館戦争が進んだ。
しかし、いったん流れ出した歴史の流れは押しとどめることはできない。官軍は第三梯団、第四梯団を増強して、次第に旧幕府軍を圧迫して函館に到った。
戦闘は5月11日にいたり、官軍の函館総攻撃が行われた。旧幕府軍は追いつめられ、弁天台場に入って最後の応戦するが形勢、利あらず、名だたる武将、栗原仙之助、津田丑五郎、武部銀治郎、長島五郎作が討死する。
戦況を案じた土方歳三が額兵隊、伝習隊、見国隊、神木隊を率いて出陣したが、敵弾を腹部に受け馬上からもんどり打って転落、あっさり戦死した。土方歳三はかの有名な新撰組の副長であり函館守備軍の中枢だったから、旧幕府軍は中核を失いまもなく崩壊した。
弁天台場が降伏して4日後、五稜郭も落ちて「五稜郭の戦い」、(これを正式には「函館戦争」と呼ぶ)が終わりをとげた。弁天台場の戦いでは函館奉行・永野玄蕃頭、さらに最後の五稜郭では総大将・榎本武揚が捕虜となり、東京に送られて投獄されたのである。
(函館市にある五稜郭。現在は公園になっている)
さて、もともと大政奉還で政治権力のすべてを明治新政府に渡したはずの幕府軍が、当時は地の果てだった函館でこれほど大規模な抵抗ができたのはなぜだったのだろうか?
勝海舟と西郷隆盛の会見によって、江戸城は無血開場され、徳川第15代将軍慶喜は将軍職を解かれて隠居した。日本人ほど潔く、武士は面目を重んじて忽ちに切腹することを思い起こせば、江戸城の無血開城はおどろくべき事件である。
しかし、これほどの事件がそれに関係するすべての人の納得を得ることはありえないだろう。実際、上野の山では徳川残党との戦いがあり、会津藩は決死隊を立てて東北親藩とともに激しい抵抗があった。
榎本武揚率いる幕府海軍も降伏しなかったが、そのことを上野の残党と同列に考えることはできない。榎本の海軍は幕府の正規軍であり、しかも江戸開城の時に湾内にいたのであるから、江戸城開城とともに降伏するのが筋であり、榎本の態度は勝海舟には不本意であっただろう。
官軍も黙っているはずはなかったが、実は榎本に手も出せなかったのである。幕府は過ぐる数年前、オランダに世界でも最大級の戦艦開成丸を発注、強力な海軍力を手にしていたので、薩長を中心とした官軍といえどもどうにもならない。
海上にあるかぎり、江戸幕府は存在していた。ちょうど陸上にその根拠を失い、瀬戸内海を漂った平家の末期を思い起こす。彼らもまた、その最後に天皇を海上に抱き、そして海上で散ったのである。日本人は海の民族でもある。最期は海になる。
榎本武揚、勝海舟はこのように歴史の表舞台にいたのだが、影で大政奉還の原稿執筆に当たった永井玄蕃頭はその後、長崎海軍伝習所で榎本、勝を育てた、今度は日本海軍の生みの親となった。
永井玄蕃頭は三河の国・奥殿という大名・松平乗尹の子であった。日本では藩の大きさはそこでとれる米の量(石高)で決めていたが、それが三万石と小さく、おまけに庶子で日陰の身。類い希な才能をもつこの男は、その才能に調和しない出生からのスタートだったようである。
やがて、玄蕃頭は旗本・永井求馬尚徳の養子となり、永井姓を名乗るようになる。玄蕃頭は頭脳明晰で穏やかな人柄であり、江戸末期の東京大学であった昌平黌で学び、やがて老中・阿部正弘に見出されて徒士頭、目付けと進んだ。
今回の話の中心となる長崎海軍伝習所のトップになった後も 勘定奉行、外国奉行と官を進め、新設された軍艦奉行と昇進し、ついには旗本の最高位である若年寄になって、大政奉還の執筆を担当するのである。
(永井玄蕃頭尚志)
2. 長崎海軍伝習所
日本では幕末から明治維新にかけて激しく歴史が動き、多くの英傑が輩出し、また数奇な運命にもてあそばれた。それはまさにトルストイの著作に書かれたテーマ、すなわち「人間は歴史の中に翻弄される存在に過ぎない」という原理がこの東洋の国でも同じように適用されたのである。
ところで、永井玄蕃頭が「長崎海軍伝習所」・・・後の三菱重工長崎造船所として世界に名をはせることになるのであるが・・・その諸取締に命ぜられたのは1853年である。
これには訳があって、その前の年の6月3日にアメリカ合衆国のペリー提督が二隻の蒸気船・旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号と、二隻の帆船サラトガ号・プリマス号を引き連れて伊豆の下田に出現したことにある。
旧式軍艦をひっさげてのペリー提督の日本威喝であったが、その効果は抜群で江戸幕府は忽ちのうちに攘夷と呼ばれるその政策の転換を迫られたことはよく知られている。
幕府はペリーの浦賀来航に驚愕しオランダに助けを求めた。同年の10月には、長崎奉行・水野筑後守忠徳に命じて、長崎出島のオランダ商館長ドンクル・キルシユスに協力と援助を頼み、オランダは求めに応じて、翌年の8月、ちょうど東洋にいたオランダ東洋艦隊の軍艦スームビング号を訓練用に差し出した。
この豪華な献上品は、オランダ国王ビレム三世から将軍にあてたもので、当時のヨーロッパ情勢から見ると列強の力関係が大いに働いていることがわかる。
幕府はスームビング号を「観光丸」と命名し、長崎奉行書の一部に伝習所を造り、これを長崎海軍伝習所とし、諸取締に永井玄蕃頭尚志、ペルス・レイケン元艦長と下士官,水兵,機関兵など22名を教官として雇って早速教練を始めた。
オランダ技師、カッテンディーケ卿の「長崎伝習所の日々」によると、「日本人の悠長さと言ったら、あきれるぐらいだ」とある。卿はある時には日本人に辛く、ある時には甘い。それ故、卿の記録をそのまま信じることには躊躇するが、あながち間違ってはいないだろう。
そのような日本人ではあったが、ペリー提督が浦賀に侵入して目が醒めたか、即座にオランダに助けを求め、2年後には優れた若者を選りすぐって長崎海軍伝習所に第一期伝習生を送ったのは特筆に値する。
しかも第一期伝習生から明治の英傑が輩出する。初代海軍卿・勝海舟、函館戦争で永井玄蕃頭、明治政府海軍卿(大臣)榎本武揚、初代海軍軍令部長・中牟田倉之助、大将で海軍卿・川村純義、初代海軍機技総監・肥田浜五郎、初代軍医総監・松本良順が連なる。第一期伝習生の学生長は勝海舟である。
長崎海軍伝習所で勉強が始まった年、その後の戦争に大きな影響を及ぼすアームストロング砲が発明された。
後装施条砲という概念はアームストロング砲の出現によって完成した。何しろ、大砲の弾を撃つたびに筒を掃除して砲身の前にで、玉を込めるのは大変であるし、それに加えて旧式の大砲は着弾距離は短く命中率も低い。それに較べてアームストロング銃は砲身の後ろから連続的に砲弾を込め、螺旋状に切った条溝を通過して回転しながら飛び出す仕組みである。
(佐賀藩の20ポンドのアームストロング砲)
このような大砲の出現は「進歩」の一つと見なされるが、それはこれまでの科学の評価であって、このような人殺しを促進する大砲が進歩のはずはない。そのことはすでにスウィフトが巨人の国の王様の言葉として明確にしてある。それもスウィフトがガリバー旅行記を書いたのは18世紀である。そろそろ人類はアームストロング砲が科学の進歩ではなく退歩であると気がつかなければならない。
1856年にはイギリス国のベッセマーが転炉を発明している。トレヴィシクの発明した高圧蒸気機関発明は巨大な鉄の容器を求め、イギリス国の鉄工業は隆盛を極め、ベッセマーの転炉の発明になる。それは自ずから鉄を用いた戦闘用武器の飛躍的発展に結びつくのはそれほど不思議ではない。
鉄鋼や戦闘用武器、それに蒸気戦艦で急激に力をつけるヨーロッパ諸国に対してアジア・アフリカでそれに追従できる国は存在しなかったのである。
日本では江戸幕府の努力にもかかわらず、列強の圧迫は急激で、ペリー提督来航の10年後の1863年にはかのイギリスが艦隊をもって薩摩を攻めた薩英戦争、さらに翌年にはイギリス、アメリカ、フランス、オランダ連合艦隊が長州の下関を襲う。ヨーロッパがアジア・アフリカを席巻し、植民地化した勢いから判断すれば、これらの事件からまもなく、日本が植民地になるのは確実と思われた。
日本というこの小さな東洋の島国は、250年にわたって鎖国を続け、蒸気機関や火力の強い武器もなく、サムライと呼ばれる刀を差し、甲冑に抜刀という武士軍団を形成しているのである。それらはヨーロッパの圧倒的火力の前に、これまでのアジアの諸国と同様、たちまち植民地となり傀儡政権ができて何らの不思議はない。
北海道はロシア、本州はアメリカ、四国はイギリス、そして九州はオランダに分割統治されると予想された。
実際、四国艦隊と長州が戦った下関戦争においては。軍艦17隻、砲288門、兵員5014名からなる四国連合艦隊が開戦1時間で長州砲台を制圧し、一蹴したのである。
ところが、このように圧倒的勝利を収めた四国艦隊も戦後の交渉では高杉晋作と名乗る長州の若い侍を扱いあぐねていたし、それよりも、七つの海を制覇したイギリス艦隊が日本の地方政権に過ぎない薩摩藩を攻めて一敗、血にまみれたのである。
この事件は近代東洋史では特筆すべき事件である。薩摩湾でイギリス艦隊が砲撃して戦闘が始まった時にちょうど、暴風雨になったこともあるが、射程一キロしかない薩摩藩の砲台が、射程4キロ、七つの海を支配してきたイギリス艦隊と互角に渡り合い、死傷者の数では、薩摩側10名、イギリス側63名でという有様である。イギリス軍は戦闘の死者13名を薩摩湾に水葬して退却することになったのである。
それでも、多くの市街地を艦砲射撃で焼かれた薩摩藩は改めてヨーロッパの軍事力の高さを知り、イギリスも薩摩藩の容易ならざるを悟ったが、イギリス国にとっても意外な事件として記録されているのである。ちなみに、イギリスが中国を理不尽に攻めたアヘン戦争の激戦、鎮江の戦いでは、イギリス軍の損害37名に対して清国は1,600名の損害を蒙っている。
そのような激しい時代の流れの中で、長崎海軍伝習所での勉強は続いていた。
250年にわたる鎖国で外国人との接触を断たれていた日本人が急に、外国人に習うのである。まず第一の難関は言語であった。通訳がオランダ語を訳すのだが、技術の言葉は間違えだらけ、アラビア数字が混じった数式などはほとんどどうにもならない。
ただ、勝海舟など優れた日本人数名がオランダ語に通じていて、何とか勉強を続けたが、オランダ人教官の名誉の為に付け加えると、教官の忍耐力も驚嘆すべきものがあった。
語学での苦労に加えて、日本の学問との衝突もある。第一期の長崎海軍伝習所ではオランダ海尉艦長ペルス・ライケンが高等代数学を教え、教科書にはオランダ海軍のピラールの航海術書を使って教えたが、その内容は、航海術に必要な基礎算術、代数、幾何、そして三角関数などあり、対する日本側の学ぶ基礎は「和算」と呼ばれるこの国で独自に発達した数学だった。
和算と西洋数学ではその概念も数式もまるで違っていたが、そろばんという和算に長けていた小野友五郎が最初に数学を覚えたと記録されているのを見ると、数学が普遍的な学術であるということに同意せざるをえない。
積分学は関孝和の流派が円理を極めていたので、なんとか理解ができたが、「微分」はニュートンの独壇場であって日本の和算とは全く概念が違い、学習は遅々として進まなかった。
それでも、日本が他のアジア諸国と異なる一つは、江戸幕府末期、ヨーロッパの学物を学ぶ意欲が高まり、医学、数学、化学などの書物が輸入され翻訳されていたことも日本の不思議の一つである。
江戸幕府時代には中央の幕府が飛び抜けた力を持っていたが、地方の諸藩も藩侯のもとでそれぞれ努力をしていたようだ。特に佐賀藩の伝習生であり、藩にある反射炉での大砲鋳造を担っていた本島藤太夫や島内栄之助、理化学研究所・精煉方(せいれんかた)から佐野常民や中村奇輔、石黒寛次、田中儀右衛門親子が参加していたので、佐野常民と石黒寛次が造船と蒸気学、本島藤太夫は砲術と数学などと専攻科目を分担して学んだのである。
たとえば、勉強家の中牟田倉之助は航海や数学を専攻していたが、「オランダ人教師が帰るのを門の外で待ちかまえて専門書を借り、下宿で書き写して勉強した」とある。
それでも、教官の不満はひととおりではなかった。カッテンディーケ卿や教官のライケンは、「日本人水夫は雨の日には実習を渋り、海に出ようとしない」、「大部分の学生は出世の足場にしようとしか考えていない。将来士官になるには一通りすべてを学ぶべきなのに、『拙者は運転技術は学ぶが、ほかはやらない』など、勝手なことばかり言っている」とぼやいている。
ともかく、彼らは蒸気機関とそれにヨーロッパが大航海時代に作られた航海術,運用術,造船術,砲術,船具学,測量術,算術,機関学を一から学んだ。日本人は飽きやすいという欠点を有していたが、自分の身の回りに何が起こっているのか、それをどのように解釈すれば良いのかを直感的に理解する能力には天才的なものがあり、それにはオランダ教官もたびたび驚かされたとされている。
その一つの例が、軍艦スームビング号の理解であろう。日本人は初めて見るこのお化けのような固まりさえ。「どうも、この真っ黒で強大な力を出す軍艦というものは完成品では無いらしい。その巨大さにおいては奈良の大仏殿のようなものであるが、大仏殿を造ってその中に金属で鋳造した大仏を納めれば、それはそれで終わりである。
しかし、オランダの軍艦というものはたいした威力ではあるが、絶え間なく破損や故障がおこり、これを直ちに直さなければ木偶の坊のようになんにも役立たないものとすぐ悟ったのである。
ところで、伝習所が作られた1855年、永井玄蕃頭は「海軍を興せば、即ち造船所を設けざるを得ず、是により在崎の日、長崎奉行とこれを談じて協せず、この故に職権専断、蘭師に託し造船製鉄の器械を蘭国より購ず」)(永井玄蕃頭尚志手記)となして独断専行、造船製鉄の機械の輸入を決断したことは俄には信じられないことで、アジア諸国、とりわけその中でも最大の清国においても到底、想像できないものである。
その後、永井玄蕃頭の決断で発注された造船所は、オランダの海軍士官ハルデスが総指揮をとり、1861年3月に鎔鉄所(製鉄所)として日の目を見る。この工場は鍛冶、工作、鎔鉄の三つからなり、その後、1868年に官営となった後、1880年には立神に東洋一の第一ドックを完成させている。
(万延元年(1860)の長崎製鉄所)
永井玄蕃頭の独断専行もあり、1859年には観光丸のボイラーの取り替え工事ができるまでになった。この情景を、造船所を訪れたイギリスの軍医レニーは次のように述懐している。
「8月7日長崎の日本蒸気工場を見学。これはオランダ人の管理下にあり、機械類は総てアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々はすみずみまで見て回ったが、なかなかの広さであった。そして、この世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する種々の仕事に従事しているありさまを、まのあたりに見たことは確かに驚異であった。」
この鎔鉄所は栄光の三菱重工業長崎造船所となり、1942年には世界最大の軍艦「武蔵」を生むのである。
第5回 終わり