UCバークレー
UCバークレーに物語は要らない。大学に少しでも関係している人にUCバークレーの解説でもしようものなら「知っているよ」と叱られるだけである。それほど有名なこの大学は確かに何も特徴の無い大学である。
学部学生22000人、大学院学生8500名、学生の多くはカルフォルニア州から来て、その比率は90%であるが、これはカリフォルニア州からこの大学に入る学生の授業料が一年で約50万円であるに対して、州の外からの学生は授業料が約150万円と3倍もするからである。またカリフォルニア州にはアジア系の人が多く、なんと言っても有色人種の平均的収入が少ないので、州立大学であるこのバークレー校に多くのアジア人が来ることになる。その結果アジア系の学生は実に40%を数える。キャンパスの中を歩くとむしろアジア系の学生の方が多いような錯覚さえする。
教員の数は学生数に比べてそれほど多くなく、1600名で、ノーベル賞学者は12人おられる。しかし、教授の入れ替えは激しく、別の大学に高給でスカウトされたり、大統領が替わると突然政府の高官に移動したりする「出世組」もあるし、一方では研究業績も上がらず、教え方などの成績が悪いので、退職をさせられる教授もいる。設立は1852年である。その後追加して徐々にキャンパスを整備しているので、現在のキャンパスは日本の国立大学を思わせる。しかし、研究設備や研究室のスペース、そしてキャンパスの全体的な配置や掃除の状態はスタンフォード大学とは違い、あまり素晴らしいとは言えない。州立の大学なので仕方がないか、と感じる程度である。
このUCバークレーが何の特徴もないのには2つの理由がある。その1つはカリフォルニア州という土地からくる。カリフォルニア州は確かにアメリカの1つの州であるが、人口から言うとカリフォルニア州だけで世界の国の9番目に位置し、気候は温暖で農作物も多く、1年中暖房や冷房を我慢することもできる。その上、シリコンバレーのような発展する産業基地を多く持ち、サンフランシスコ、ロスアンゼルスという大都市、そしてハリウッド、ラスベガス、ディズニーワールド、ヨセミテ国立公園など観光地にも事欠かない。太平洋を挟んでアジアとも対峙しており、アジア人の進出もあって活気に満ちているのである。かつて世界がヨーロッパを中心として動いていた頃、ニューヨークはもちろんのこと、ボストン、ペンシルバニアなどの東海岸の州が活発であった。それは産業的にも学問的にもそうで、プリンストン大学やその他の東海岸の大学が優れた研究をしていた。今でも東海岸の大学が優れていることは確かだが、スタンフォード大学、UCバークレーなどの西海岸の大学が対等に活躍するのは、世界の中心がヨーロッパからアジアに変化していることと無縁ではない。
ボストンからサンフランシスコに広大なアメリカ大陸を横断すると強い西風の影響もあって6時間半の飛行時間を要する。これに対してサンフランシスコと成田は11時間半である。地図で見ても太平洋はアメリカ大陸の丁度2倍である。カリフォルニア州からアメリカの東海岸に行くのと、アジアに来るのとではあまり違いが無いのである。
そのような状態だから、もちろんカリフォルニアの人口も減らないし、若者の比率が減少することもない。アメリカ全体の人口が頭打ちになり、成熟してもここは若々しい活気のある州なのだ。むしろ人口の増加、有色人種の問題、激しい経済活動の狭間で脱落する人たち、ホームレス、複雑な政治状況とアメリカでの特異な場所として発展しつつある。
おまけに、カリフォルニア州の州立大学は州全体で大きなコンソーシアムを組んでおり、18才高等教育全入計画を進めている。その頂点にこのUCバークレーが位置している。だから、UCバークレー校は学生を取ろうと思ったら学生はいくらでも来る。その学生もトップ12.5%以内と決まっているのだ。しかも、大学の財政は州が面倒を見る。これほど無風の大学は無い。まるで日本の旧帝大八大学を見るようである。
UCバークレーにも悩みはあることはあるが、それはとんでもなくのんびりした悩みだ。アメリカ合衆国の税法を簡単に言えば、所得税は国税と州税となり、固定資産税が市町村税である。州立大学は州の税金や国の補助金で運営するのでバークレー校は基本的には所得税でまかなわれる。一方、UCバークレーのある自治体の小学校、中学校は市の税金で運営するが、自治体の財政は火の車である。なぜなら、UCバークレーは州の持ち物なのに、市の中心部に南北1.2マイル、東西1マイルの大きな敷地を占有する。敷地を占有しているが、教育機関なので固定資産税を払わない。自治体とはそこに住む人から人頭税を取り、施設から固定資産税を取り、それで運用する。人が多いと初等教育や警察などの自治体のサービスが増えるし、施設があると消防などのサービスを要するからだ。これらのサービスは自治体が担当する。しかし、バークレー市はUCバークレーという巨大な施設を抱えながら、そこからまったく税金を取ることができないのである。確かにUCバークレーがあることで多くの学生や教職員が市に住む。その職員にバークレー校は給与を支払うが、その税金は州に行ってしまう。学生が食べ物や衣類を買うと商店の所得になるが、これも所得税として支払われ市には入らない。
このバークレー校の「最大の悩み」を少しでも解消しようと、大学がバークレー市の警察署の運営費を出している。これも変な話で本来教育に使用すべき資金が他の目的に使用されるとしたら問題であるが、そうも言っていられないのだ。UCバークレー校や学生の下宿が火事になっても、犯罪が起きても消防も警察も来てくれないということになるからである。
カリフォルニア州の高等教育体系
UCバークレーには話題が無いので、カリフォルニア州の高等教育体系の話でもすることにする。
第二次大戦はアメリカに大きな自身をつけた。もちろんアメリカは戦勝国の中心であったし、原子爆弾を作った唯一の国としてその後の世界を制覇したのである。アメリカ人は自分たちこそが永遠に世界を支配する優れた民族であると信じて、ある時には世界の警察、ある時には民主主義の旗頭となった。そんなときに突然、自分たちより遙かに遅れた文明をもつ国であったはずのソ連が「スプートニック」を打ち上げた。このスプートニックとガガーリン大佐がアメリカに与えた衝撃は計り知れないものがあり、アメリカは国を挙げてその威信を取り戻そうとする。それからの長い努力と湯水のように使った研究費のおかげで、アポロが月に着陸した。アメリカ人に「なぜ月に行くのか?」と質問しても満足な答えは返ってこない。世界の科学技術の進歩に役立ちたいとか、これからは宇宙時代であるという話は公式にすぎず、とにかく俺は1番になりたいのだ。それを早く確認したいんだ、というのが本当の理由であった。
「追いつけ、追い越せ」の政策が教育に影響を及ぼしたのは言うまでもなく、高等教育の完全な見直しが要求された。カリフォルニア州の高等教育のプログラムは6ヶ月の短期間で練り上げられた。その構想の骨格は、
①カリフォルニア州の全ての18才の若者に希望すれば高等教育の機会を与える。
②そのためには、まず「安くて誰でも入れる初等大学」を作り、学生がその目的に合わせて「高くて専門を学べる高級大学」にまで進めるようなシステムを作る。
③奨学金制度などこの「18才全入計画」と言う理想を実現するための具体的な援助体制を作る。
である。この計画は実際に実行され、
①最上位の大学として、UC(カルフォルニア大学)1大学9校舎(通訳とのトラブルで確認ができなかったので数字は不確かである)
②その下に位置する大学として州立大学23校
③さらにその下に二年制の授業料の安いコミュニティー・カレッジ122校がある。
がある。私立大学は全体の骨組みには組み込まれていない。カリフォルニアのこの高等教育システムを作る時の委員会の委員長を頼まれただけである。
④私立大学はカリフォルニアに70校であり、この私立大学は全体の教育システムの中で独立に動く。
それぞれの大学は役割分担が決まっていて、最上位に位置するUCが研究大学として位置づけられ、最新の研究設備はUCに集められれ、博士課程を持つ。その下の州立大学は学部教育が主体で、一部修士課程を持つ。当然、このシステムができるときには州立大学の先生は「自分たちも博士課程を持ちたい」と希望を述べたが、一部を除いて全体の教育システムの調和のためにその願いは実現しなかった。多くの州立大学は中程度の学生を収容し、少ない施設で教育を行うことになった。さらに、2年生のコミュミティー・カレッジが高等教育の初等部分と工芸、芸術、生涯教育など地域社会への還元を含む短期大学としての役割をはたす。
州立大学の先生に取っては辛いことであるが、学生に取ってはなかなか良いシステムである。学生の内、大学に進学する資金があり、高等学校の成績が上位12%に達していれば、UCバークレーなどの州内の九つある最高レベルの大学に入る。そうすれば全米でも最高級の教育を受けることができる。高等学校の成績がもう一つで、しかし大学には進みたい場合は、多くの州立大学が用意されている。施設や博士課程は無いが、そこで勉強して3年次にUCに編入しても良いし、そのままその大学を卒業しても良い。この様なシステムであるからサンフランシスコ州立大学(サンフランシスコにあるカリフォルニア州立大学(下の図:UCバークレー校の学生とは雰囲気が違う)はほとんどの学生がそのままこの州立大学を卒業しない!ストレートに卒業する学生は数%である。
この様な階段状のシステムの場合は、「愛校心」は無縁である。大学は勉学をするところで、ある大学でじっくりと勉学し、友達を作り、先生から薫陶を受けるという環境にはない。この大学には長く入れないぞ、といつも言い聞かせているのだ。
高等学校を卒業してそのまま社会には出たくないが、4年制大学は気が重い、という学生にはコミュニティー・カレッジが用意されている。2年の高等教育機関という点では日本の短期大学と類似しているが、学生は卒業と4年制大学に移動(トランスファー)するのが前提で、その点は日本の短期大学と少し趣が違う。コミュニティー・カレッジを卒業して、そのまま州立大学の3年に編入しても良いし、私立大学に移っても良い。またいったん努めて、州立大学のパートタイム学生として働きながら勉強をしても良い。選択はかなり自由である。この自由な教育体系こそがアメリカの高等教育の特徴である。日本では「科目等履修生」という制度ができて、大学に入っていなくても単位を取ることができるようになったが、ある大学に所属しながら、時々しか大学に来ない学生という身分は無い。(もっとも日本ではフルタイムの学生が4年の卒業研究の時にほとんど半年は大学にこないこともあるが、これはパートタイム学生ではないので錯覚しないように!)アメリカのパートタイム学生の制度はなかなか良くできていて、ある大学に入学し、その大学の正式な学生となる。その傍ら職業を持ち、又は主婦として働く。働きながら時々(毎日のように行っても良いが)大学に行って単位を取る。12年までは大学に在籍できる。コミュニティーカレッジを卒業して、ある会社に20才で入り、その後12年計画で大学を32才で出ることができるという訳である。この制度は大学院にもあるので、じっくりと勉強して修士号を取る学生も多い。
日本でも最近、学生が勉強の途中に社会に出て社会人としての生活を経験することが高等教育にも必要であると言われている。「インターンシップ」という制度がそうである。このパートタイム学生の制度はそれを本格的にしたものとも言える。これに加えて、アメリカの大学では大半の学生が奨学金を得ることができる。どの程度の学生が奨学金を得ているのか、その奨学金は生活のほとんどであるかなど定量的な調べは付いていない。多くの人が定性的に言うことをまとめると、「親から多額の補助を受けていない多くの学生が奨学金をもらうことができる。この奨学金はつとめたら返却するが、優秀な学生は返さないでよい奨学金をもらう。奨学金をもらっている学生は約8割程度、返さなくても良い奨学金は3割程度」と聞こえる。
カリフォルニア州の高等教育システムは学生に優しい。
アメリカ大学の人事と評価
UCバークレーの新しい教員の採用と昇進は、かつて学長の権限であった。人事問題の多くがそうであるように、学長の権限に対して教員の間で疑問が湧き、1980年頃より学部の教授が委員会を形成して教員の採用と昇進を決めるシステムに変更された。日本の多くの大学と違って、アメリカでは学長、副学長、学部長のいずれもが理事会などのいわゆるボードで専任される場合が多く、教員による選挙などの洗礼を受けない。従って教員にとっては学長などの行政組織はいわば「敵方」なのである。
UCバークレーの場合にはこの矛盾を修正するために教員が「予算委員会」と言う名の人事委員会を構成する。 その他に学外の匿名の委員による選考委員会があり、その委員は非公開である。これらの委員会で業績に対する詳しい評価を行って候補者を選出し、学部長と合意の後、副学長に申請し、折衝の後決定される。さらに詳細な過程はかなり複雑で様々な手続きや組織が公平性を保つために行われ、また設置されている。選任過程、推薦過程、業績評価方法など多くの規則とガイドラインがある。しかし、人事を検討する委員会が「予算委員会」と名前が付いていることからも象徴されるように、幾多の紆余曲折を経て現在の選考システムができあがっており、それでも十分に満足されたシステムはなっていない。
このような厳密な方法を考えても、なお問題点が多いという。その1つは、採用や昇進を決める唯一の尺度である「業績」自体がはっきりしないからである。業績は研究業績と教育能力に分かれる。研究業績はノーベル賞などの受賞も考慮されるが、基本は最近の学術論文と学会での発表実績で考慮される。たとえノーベル賞学者でも最近三年間の研究実績が非常に不十分なら評価されないこともあり得るとという規則である。しかし、特別な場合を除き、大学院生を持ち、ある程度の研究環境があれば一流の学者に取って学術論文を国際的に評価される雑誌に投稿し、掲載されるのはそれほど困難なことではない。むしろ先端的専門分野では論文数も少なく、研究者も少ないので、論文を提出すればそのまま通るし、発表は申し込みだけなのでさして困難ではない。つまりバークレーの教授が学術実績を積むことはさほど難しくないのである。
教育実績の評価はさらに困難である。まず学生の評価は授業評価を基本として行われる。しかし、大学の1-2年生の範囲で、学問の具体的内容を教授するだけなら、「よく説明してくれた」「判らないところを親切に教えてくれた」などの初歩的なことから「新しい知見を含んでいた」など少し努力すれば達成できることが評価の対象であり、学生の評価も可能である。しかし大学院教育を主体とするバークレーの様な場合には、具体的な事実を教えると言うより、「その学生の内に秘めている創造性を高めた」、と言うような視点からの評価が必要である。評価をする学生は自分の体の中に創造性がどの程度高められたのかを判定することはできない。それは自分が実社会に出たり、研究生活を始めたときに、ふと気が付き、「あの先生が言われたのはこういうことだったのか」と気づく。最後まで気づかないこともあるが、その人の行動や考え方の基本が大学時代の教授から与えられることもある。多くの学生は本当の教授の薫陶を感じることは困難である。
むしろ、教育というのは教える先生と学生の実力の差が離れていて、その人の言うことが完全には理解できないところに意味がある。それを自問自答している内に自分の中により創造的な能力が養われる。単に、事実を事実として暗記させるのであれば、教授が学生に講義を行わなくても良く、それこそ大学院生の方が事実を教えるのでは巧いだろう。
UCバークレーには高等教育専門の機関があり、多くの教授やドクターが「高等教育はいかにあるべきか」を研究している。しかし、教員評価のうちの重要なこの問題点は先送りしている。本当にどのような方法で教授の教育能力と達成度を評価するべきか、それは不明であるというのがUCバークレーの高校教育研究者の偽らざる感想である。日本での授業評価の導入と教員の評価は慎重になされるべきであろう。
それに、アメリカ社会は実力主義の仮面をかぶっているが、実際には日本にも増して人脈の活きる世界である。教授の採用や人事は日本にも増して人脈が大きく影響する。「誰それの推薦状」「誰それの口添え」が極めて重要である。また、教室、学部レベルでの人事を巡った抗争は日本より激しい。ただ、さすがアメリカであるので、陰でこそこそというのは少ない。
教育環境と新しい教育の工夫
UCバークレーはカリフォルニアの優秀な学生が自動的にくるシステムであり、学生の確保はもちろん、質の良い学生を取るという点でも苦労はなく、その結果、教育にはさほど苦労してない。それでも平均的には学生の30%がドロップアウトする。残りの70%の学生は卒業するが、約50%が4年卒業、残りの50%は5年かかる。しかし、1年遅れて5年で卒業する多くの学生は単位が取れなかったというのではなく、外国に旅行したり、本格的なボランティア経験を学生時代に行うからだだ。いわば「積極的留年」と言える。とにかくアメリカの学生は勉強する。それは目的意識がはっきりしていること、18才で独立することで大人になることなどが理由であろう。
先生の方も入れ替えが激しいこともあって、日本と違ってかなり努力をしている。学部の学生の授業をティーチングアシスタントに任せることもなく、勉強をし新しい分野を学び、講義法に工夫をして望んでいる。特に、学生の気質の変化に応じて新しい教授法の試みをする実行するときには、同じ教科書や教授法を使う先生方でE-メールを使ってその効果を検討するような努力をする。この様な先生方の努力に対して大学でも新しい教育の試みに対して奨励金を交付したりして教育改善の後押しをする。
従来型の教授法の改善に対して、通信・コンピューター・衛星などを使用した新しい教授法の研究も行われている。通信衛星によりアメリカ全土ばかりでなくヨーロッパとの相互通信が可能であり、地上回線の多くは光ファイバーを使用した高速通信網が完備されている。これらの高速通信網を利用して様々な試みが行われ、そのうちある程度実用化に入っている例もある。
しかし、基本的にはアメリカのニューメディアを用いた高等教育の試みは成功していない。教室レベルにおいても伝統的な黒板と宿題の組み合わせに対して新しい教具を使用した決め手に欠く。試験や宿題の回答をメールなどを使用してやりとりする方法はすでに日本でも多く行われており、それを越える試みは少ない。また、インターネットホームページを使用した教育は、取り組む前の意気込みとは反対に、制作に大変な手間を要すること、機械的トラブルやソフトのトラブルに巻き込まれること、そして毎年毎年変わる機械やソフトのリプレースに追いまくられることなど、困難が多くて成功していない。UCバークレーのニューメディア教育担当の先生はあまりのトラブルに疲れ切って、あまりやりたくないという風である。
別の問題として、衛星を使用した講義やシンポジウムはUCバークレーのように悠々たる大学でそれ自体で完結している大学はあまり興味を持たず、先生が足りないとか、施設に余裕がないと言うような大学が使っているということがある。つまり最新の教育手段も前向きにより効果的手段としては使用されていないのである。
アメリカがニューメディア教育に失敗しているからと行って、それを日本に当てはめることはできない。アメリカの教育がニューメディアを使用するのに失敗しているのは、日本のように「日本人で中流階級」のみで国民や学生が構成されていないからである。黒板や宿題といった伝統的な方法は教育の実施に柔軟性があり、多くの民族や多くの階級の子供たちを同じ方法で教えることができる。ところがニューメディアは学生が保有いている機器やソフトに統一性を要求する。この統一性こそはアメリカが最も不得意とすることで、おのおのの学生がバラバラの機器を持っていて、ソフトの統一もままならない。建国以来、「統一」をいやがってきて、そういうシステム自体を持たないアメリカ人は通信時代を迎えて、どうして良いのか判らないのである。
ニューメディアを使用した教育はうまくいかないこともあり、予算も潤沢ではない。むしろニューメディアを使用した教育は「金喰い虫」といやがられている。
UCバークレーの教育システムは面白みが無いが、研究は一流である。研究室はさほど大きくないが、都市計画研究室ではアメリカでは最も早く定量的見知からの都市計画に取り組んでいる研究室で、その研究室にはサンフランシスコの実物大の模型があり、その模型に雨や風、その他の攪乱要因を加えられる設備がついている。その横の部屋にはコンピューター・シミュレーションの設備があり、新しいビルや都市計画が実施される前にコンピューター・シミュレーションで検討できるようになっている。サンフランシスコの郊外にありスタンフォード大学の敷地に大きなショッピング街を作る計画では、オークの木を残してどのような配置が望ましいか、写真とコンピューター・シミュレーションを組み合わせて様々な角度から検討する。コンピューター・シミュレーションは単一のビルの計算はできるが、ある区画全体のコンピューター・シミュレーションはまだ困難である。
いずれにしても、都市計画の多くが住民の反対を受けるので、市は中立的な立場から検討を加えてもらうために大学にそのアセスメント依頼する。大学は基本的には中立であるが、中立ということ自体が広い概念を持っているので、その検討は難しい。サンフランシスコ市の行政と関係する都市計画のアセスメントなどの役割をUCバークレーが果たす立場にある。その意味では市民の大学なのだ。つづく