ゴールデンゲート大学


 サンフランシスコのあるオフィスの風景である。ガラスの向こうに一人一人に分かれたオフィスがあり、それほど大きくないが机と電話、そして本棚、ファイルボックスなどがキチンと調度されている。働き手の女性が書類に目を通しながらコーヒーを飲んでいる。

 そのオフィスの前に数人のビジネスマンが忙しそうに電話を取り次いだり、コーヒーを入れたりしている。部長級に見えるガラスの部屋に入っている人と、「平社員」のような手前の数人の人との間に見かけ上は差はあまり感じられない。日本のように部長は年齢が50歳前後、男性、頭は少し薄く、背広を着ている、ということもなく、ガラスの人も手前の人も同じ様な年齢、性別、服装である。実は、ガラスのオフィスに入っている人は修士号を持っている人、手前の事務員は大学を出ただけの人である。

 ゴールデンゲート大学の副学長補佐は学生のリクルート部門の責任者である。彼女がその地位を手に入れたのは、彼女がマーケティングの修士号を持っているからである。

 アメリカ社会は資格(アメリカでの資格は修士号、博士号が最高である。その他弁護士、医師、公認会計士などが上位の資格である)を資格として認める社会である。そしてあくまでも究極のプロフェッショナルになることをアメリカ社会は求め続けるからである。昔は大学卒業、すなわち「学士」の資格がある程度の意味を持ったが、高等学校卒業の70%が大学に進学し、大学全入時代のアメリカでは「大学卒」の資格は資格ではなくなった。さらに産業の高度化で大学四年ではさして専門性を身につけることもできなくなったことも影響している。すでに大学卒の意味は日本に比較して大変低く、アメリカが要求する「究極のプロフェッショナル」にはほど遠いのである。その点、修士号は意味がある。1つにはアメリカの大学の修士号自体の持つ専門性を表す価値の高さであり、一つに修士号を取る勉強を通じて得られる深い専門性である。大学院修士課程では厳しい講義で尾てい骨が痛くなるほど勉強させられる、といわれる。資格を金と時間で買うような日本の修士号と違ってアメリカの修士号はそれなりに意味があるのだ。

 そこにゴールデンゲート大学の生きる秘密がある。


ゴールデンゲート大学とは

 ゴールデンゲート大学はその名の通りサンフランシスコにある。ユニオンスクエアーから徒歩で行けるところの市街地に5,6階建てのこじんまりしたビルが建っていて、入ると右側に図書館、左側に学生課がある。学生課といっても鉄格子で区切られた数個の銀行のような窓口が並んでいて、中で事務員がクッキーを食べている。

 エレベーターは二つ、このエレベーターは昇降の速度が遅く、学生が一杯詰まるので、いつも混んでいる。そばの階段を歩いた方が早い。その階段を5階まで上ると小さな学生用のカフェがあり、10人ほどの学生がたむろしている。学生用のたまり場はその他に地下に半屋外の「前庭」がある。薄曇りの冬の昼さがり、20人ほどの学生がたまっている。

 学生食堂は無い。繁華街にあるこの大学では学生はどこでも食事ができるので、あえて大学で学生食堂を揃えなくても良いというのが大学側の説明であるが、真実は食堂を作る余地も資金の余裕が無い。それでも大学は9000人という学生を収容するには少し小さいビル一つのキャンパスを補うために、すでにキャンパスの隣にあるサンフランシスコ大地震で倒れたビルの敷地を買収しており、近々、ここに法律学校を立てる予定である。また3分ほど離れた所にエクステンション・オフィスがあり、そこには生協組織ではない大学所属の本屋と、インターネットで通信教育を行う「サイバー・オフィス」がある。

 この大学はゴールデンラッシュ時代に鉱夫の道徳教育から始めたサンフランシスコのYMCAが変身してできた姿である。つまりこの大学の前身は「職業学校」の様な役割を果たしており、高等教育を行う機関の中でも決して位置づけの高い方ではない。しかし今や、9000人のうち実に5600人が大学院生という立派な大学院大学になった。大学院のほかは、900名ほどの法律学校が目玉で、その他に少しの学部教育も行っている。キャンパスは10ヶに分かれ、1クラス20-25人の少数教育が自慢である。

 一方、先生の数は少なく、専任教員といくらかの中心的な役割を果たす非常勤教員を併せて110名ほどしかいない。計算上では一人の教員あたりの学生数は実に80名ほどになる。専任教員が少ないのをカバーするために900名の非常勤講師を雇っており、それを加えると今度は教員一人あたりの学生数は10名になって超一流大学並になる。古い大学のイメージを引きずるボストンのタフツ大学と新しいイメージで都会でビジネスを行うゴールデンゲート大学の差は教員採用のポリシーにも歴然とその差が現れている。この大学の対象学生は、大学院の学生は大半が日本で言う科目等履修生(パートタイム)、全学生の28%しかいないが学部学生の50%がパートタイム、そして法律学校だけは100%フルタイム(日本で言う昼の学生)である。

 この大学がとらえどころがないのはこのことだけではない。講義の区切りは15週、13週、10週、8週そして、5週と5種類も用意され、いずれも3単位の取得には45時間と決まっているので、5週の時には1週間に9時間も講義を行うことになる。定員もなければ、最大収容人数もない。夜の講義は満杯であるが、昼は今のところガラガラなのでいくらでも入るが、これで一杯でもある、という訳の分からないことになる。大学の関係者もどの程度の学生が満杯なのかあまり意識をしていない。教育に支障がこればそれが過剰なのだ。定員と設備という形式で縛る日本の大学基準と、定員も意識せず教育に支障が起こることは大学人自らがやらない、というアメリカ。競争は物事を正常にする。


どちらが幼稚園なのか?

 1970年代、アメリカの企業は好景気の中で多くの若者を採用した。その中には、高校生、大学中退、そして大学卒業生がいた。日本のバブル期と同じで、「頭の下に体が付いていれば、頭の中身は問わない」という時代だった。この人たちのうち何人かは、本当は大学に進みたかったり、大学院へ行く予定であったが、良い条件の就職に走った。それから10年経ち、1980年代になると30才近くになった彼らは資格によって会社における地位が決まることを身にしみて知るようになり、そしてゴールデンゲート大学の門をくぐり、こうして勉強しているのである。学生の大半は修士号の取得を目指している。

 ゴールデンゲート大学が目的を持った大人の大学であるとすると、伝統的な大学は何をしているのだろうか。伝統的大学では高等学校を卒業した17才の大学生が一斉にキャンパスに溢れる。彼らはまず教養科目、基礎科目を系統的に勉強し、次第に専門科目へと向かう。宿題は多いし、学費も稼ぐ必要がある。大学生活は彼らにとって厳しいと言えば厳しいが、キャンパス生活はやはり彼らにとって人生そのものであり、そこで友達ができ、挫折をし、人間として成長する。大学には学生食堂が必要であり、時には全寮制か、それと同等の設備が整っている。

 もし大学というものが「学問の府」であれば、大学食堂は要らないだろう。そして寮生活を通じて友人とともに人生の初めての挫折を経験することも関係ないことである。自らに必要な知識を得ることが目的なのだから。

 しかし、ゴールデンゲート大学が対抗する「伝統的大学」は学問を教える所とは言えないのではないか、この大学は考えるている。事実、MITにせよ、スタンフォードにせよゴールデンゲート大学から見れば幼稚園なのである。MITには学生課の窓口があり、盛んに学生の相談に乗っている。頭が良いだけにノイローゼになる学生も多い。タフツ大学では母親の希望通り箱入り娘に男子と接しないような女子寮を用意する。教授の後ろ姿を見させながら学問を教え、なだめすかして大学生活を過ごさせる。それが何で学問を教える大学といえるのだろうか。一歩譲って、それらの業務を大学がしていけないとは言わない。しかし大学の本来の業務は「学問を教える」ということであれば副次的なものに資金を投入するべきではない。よほど世の中と関係ない学問分野は別世界で幼稚園的に教育をしても良いが、法学、経済学、商業関係、コンピューターなどの分野は実世界の学問であり、大人が世の中と密接に関係して学ぶものだろう。

 そうするとまず教授陣は少ない専任を除いて社会人から優れた人材を登用しなければならない。幸い、サンフランシスコやシリコンバレーなどには大きな企業と博士号を有する優れた人材が多い。教授陣が実社会を知らないで法律を講義してもらっても困るのである。

 本格的な大学で、しかも「大学の評判」を教育そのものに置けば、ノーベル賞受賞者の数も、研究大学としての博士号授与者の数も問題ではない。教授陣に研究をしてもらわなくても結構である。「研究をしなければ新しい知識のもとに教えられない」等というのは体裁の良いサボりのいいわけにすぎない。事実ゴールデンゲート大学の学生は他の幼稚園のような大学と比較して厳しく、教授が古い講義をしたらたちまち「罰せられる」。例えば、経済学の講義で1994年のワシントンタイムズを教材に使用したら、古い教材を使ったということで学生の評価は5点満点の2点になる。新聞を教材に使用する時には1997年の新聞を使用しなければ4点以上はおぼつかない。学生による授業評価は講義の最終週に行われる。授業の最後に大学事務員が教室を訪れ、10問からなる評価シートを配る。学生が配り終わると事務職によって密封されて回収され、担当副学長に送られる。回収されたマークシートは一覧表になり、副学長に届けられる。5点満点で4-4.2点程度を取らないと「良い教授」とは言われないし、3点台になると首を洗い、2点を下回るとまず来年の講義の依頼は来ない。学生はもともと馬鹿ではないし、貴重な時間と3単位で15万円の授業料を払って受けるのだから本当に役立つ講義をする先生に良い成績が付く。


大学はビジネスである!!

 大学がもし「幼稚園」ならば大学は人間を教育する教育機関と言って良いであろう。もし大学が学問を教えるところなら、大学がビジネスであってもそれは何の不都合もない。しかし、現実を見ると、伝統的大学に入学する17才の大学生は子供である。だから単に学問を教える大学を経営するなら子供は邪魔である。大学院を中心とし、できるだけ年取った学生を入れれば、学生食堂がいるとか学生会、やれカウンセリングなど子供相手の業務は無縁になる。それが、ゴールデンゲイト大学の基本思想である。

 幸い、この思想を側面から援助する風土がアメリカにはある。まず第一にアメリカの履歴書には「昼間の大学」と「夜の大学」の区別はない。確かに、何々大学というレッテルは物を言うが、それが夜学であるか、昼であるかは問われないのである。第二に企業が職務経験を重視するので年齢を重ねていると言うことは何ら不利にならないのである。かえって企業も子供を取るよりも大人の方が手が掛からなくて良い。子供を優遇し、ある意味では大人まで子供っぽい日本とはだいぶ違う。

 ゴールデンゲート大学のビジネスはしっかりした構造を持つ。

 まず、企業イメージを高める。いい製品と作る会社だと消費者が思うためには、まず「良い会社」というイメージと「実際にいい製品を作る」ということの二つが必要である。そこで、ゴールデンゲート大学に学んで卒業した人には、宇宙飛行士、警察署長、一流会社の部長などがいますよ、彼らはこんなに満足してますよ、と繰り返し宣伝する。それと同時に入学を少し制限して難しくし、学力の低い人は遠慮してもらう。仮に校舎の余裕があっても決して学力の低い人を取ってはいけないし、なにかの事情で学力の低い人を取ることがあっても、「入学するにはどの程度の英語力が必要ですか」と聞いてきたら、TOEFLで五五○点と一流大学並のレベルの点数を答えることが大切なのだ。人間を製品扱いにするのも不見識であるが、良い品質の製品で評判を取ろうとしたら、悪い原料は入れられない。そして良い品質であることを繰り返し宣伝しなければならない。

 確かに、ゴールデンゲート大学の狭いキャンパスにいる学生の顔は明るい。そして聡明そうである。この近くの普通の大学、サンフランシスコ州立大学のキャンパスで見かける大学生とは比較にならない。

 企業イメージを高めたら、次は組織的な宣伝である。宣伝には年間3億円を使う。ビジネスなのだから「営業部」が学生集めをする。営業戦略の中心は企業にターゲットを当てており、「ゴールデンゲート大学で修士の資格を取ればあなたの人生は変わりますよ」「この大学で公認会計士のもとになる修士をとればあなたの年収はこんなに上がります」とあらゆる手段で呼びかける。テレビ、ダイレクトメール、卒業生の口コミと何でもあり。入学の可能性のある学生と接触し、できるだけ歩留まりを多くする。それが営業部長の役割である。

 入学してくる学生は様々である。ある人は昼休みに大学に来たいが、昼休みは1時間しか無いというなら、大学がその企業に掛け合って昼休みを2時間にしてもらう。そこまできめ細かくするのだから、開講時間、6ヶ月制、3カ月制など自由自在。キャンパスの場所も学びたい人の近くにある必要があるので、サンフランシスコ市街、その近辺に小さなビルを10ヶ構えて、数分歩けば学生が来るところにキャンパスをいくつも置く。文部省もいないので校地の規制やキャンパス間の距離などの制限はない。「学問ができれば良い」という思想で統一するのだ。

 良い製品を出すためには、講義や試験を優しくしてダメな学生を出すことはできない。この大学は幼稚園ではないので、人格を形成したとかそういう甘いことは言っていられない。ゴールデンゲート大学を出た人を見てくれ、と言えなければ継続的に学生は来ない。

 次に、徹底的な先生の選別を行う。学生の評価点が低い先生はご遠慮願うことはもちろん、学長の意に添わない先生は、学生の評価点が良ければ首という訳にもいかないが、大学の重要な職からは離れてもらう。現在のサイバーセンターのセンター長は元副学長であったが、学長が替わったら左遷された。

 大学の設備も最小限とする。学生食堂も居場所もあまり用意しない。図書館など学生の利益になる物だけ選別する。その方が授業料も少なく抑えられるので、大人の学生は喜ぶのだ。大学の設備が良くなれば授業料が高くなるのは、実生活を送っている学生にはよくわかるので、設備についての不満はない。

 アメリカの大学は大衆化したという。ユニバーサル化という内容の本が出て、そう思っている日本人もいる。YMCAが全身で、夜学が主体のこの大学はさしずめユニバーサル化を具現している大学とも言える。しかし、この大学は大衆化も、ユニバーサル化も関係ない。「教員の研究は認めない」「資格を優先する」という言葉からは、大衆化した大学が教育に専念して研究をおろそかにし、資格を優先して教養科目を軽視し、大衆の要望にあわせて短絡的な資格大学になっていくというイメージとはかけ離れたものがある。日本で認識する大学の大衆化は世界でおそらく日本独自の形態と内容を持つものになるだろう。アメリカの現状についての日本での観測は全くの事実誤認なのだ。

 「教員の研究は認めないから、その時間だけ勉強しなければ採用しない」「資格を優先するので大学院しかやらない」というのであるからはっきりしていてレベルは高い。大衆化とはレベルが高くなることなのである。

 それでも、アメリカは変化している。大学が大衆化するに従って伝統的な大学4年の教育が中途半端になりつつある。いや、エリート教育をしているときから大学の4年は中途半端だったかもしれない。ゴールデンゲート大学から車でほんの20分ほど要ったところにカルフォルニア州立大学がある。この大学は希望者の90%が入ることのできる大学で、税金と企業からの献金をもとに一年30万円という破格に安い授業料で運営している。キャンパスを歩いている学生は、日本の学生とそっくりといっても良いし、サンフランシスコで旅行者が近寄れない六番通りの浮浪者とあまり違わない格好である。日本の大学のキャンパスに帰った錯覚に襲われる。未確認の情報だが、この大学に入学する学生のたった4%しか、正規の4年でこの大学を卒業しないと言う。この大学は大衆化したが、安い授業料で勉学をおろそかにし、慈善事業をやっている様なものである。もちろん資格などは取れない。税金でぬくぬくと大学経営をして良い教育をする事を怠り、それで居て州立大学といってはいるが、企業努力の無いところ時代に追いつくことはできないとゴールデンゲート大学は言いたいだろう。

 ゴールデンゲート大学は何事にも強気の大学で、大学特有のはにかみや世離れしたところはない。しかし、「この州にはバークレーやスタンフォードがある。何か特徴を出さなければ私立は生きていけない」と控えめである。それを聞くと、大学の看板を掲げて幼稚園を経営しているこちらが恥ずかしくなる。大学とは何を教えるところなのだろうか。学問を教えるとともに人生を教えるとしたら、教授には学問業績と人格を選考基準に入れなければならないだろう。我々はある時には「大学は学問」といい、ある時には「大学は教育」と使い分けているようだ。

 大学の大衆化と資格という意味では、日本での議論と違うところがある。大学が大衆化し進学率が上がると言うことは誰でも大学に進学できると言うことである。特に日本のように大学での単位取得が簡単な所はよけいその傾向が強い。そうなると大学を出れば普通ならとれる資格、学士はもちろんのこと意味を失う。誰でもとれる資格が意味があるはずはない。また例えば電気工事士、一級建築士、教職などが意味を失うことを意味する。大学が大衆化すると、大学院やそれに相当する所に行かなければとれない資格が重要になる。その資格とは、例えば修士、弁護士、医師、アメリカでの公認会計士(修士号必要)、組織心理職(修士号必要)等である。

 資格とはみんながとれないから意味があるので、大学が大衆化しどの大学でも資格を取らせるようになると、資格を取ること自体の意味が無くなっているのが現在のアメリカの大学である。ゴールデンゲート大学は典型的な夜学の資格大学である。その大学のほとんどが大学院であるということは日本の将来を示しているのではないだろうか。

つづく