-デディケーション-

 もう20年ほど前になるだろうか?そのくらい経つと自分が何歳の時だったかも忘れてしまう。ともかく、NHKの3チャンネルで英語中級の番組があり、それを日曜日にボンヤリと見ていたときだった。

 アナウンサーがアメリカのバスケットボールの選手にインタビューしている。見るからにバスケットボールの選手らしい体つきと、私はスポーツマンですよと言っているような爽やかな受け答えだった。大きな体なのにボソボソと話すその仕草もとても好意が持て、話の内容も比較的単純であっさりしていて、私の英語力でも十分に会話を楽しむことができた。

 インタビューの半ばにアナウンサーがこんな質問をした。
アナウンサー 「あなたがバスケットボールをする理由はなんですか?」
質問は月並みだったが、この答えは私が生涯、忘れることができない言葉であった。

選手 「それはバスケットボールに対するdedication(デディケーション)です」

 アナウンサーはこの答えに満足しなかった。アナウンサーが聞いたのは「なぜ、職業としてバスケットボール選んだのか?」という意味に近く、アメリカのバスケットボールのNBAに憧れたとか、小さい頃からバスケットボールが好きだったとか、そしてあるいはNBAリーグに入ってお金を得て両親に贅沢をさせたいとかそう言う答えを期待していたのだろう。

 それから見ると「バスケットボールへの献身です」というのは違う。献身(dedication)は「理由」にはならない。いったん、NBAに入り、ある程度年齢が経てば、欲得も無くなって献身したくなるのは判るが、最初からバスケットボールにdedicationするためにNBAに入ったというのも本当か?

 私がそう思った瞬間、はたしてアナウンサーは食い下がる。
アナウンサー 「お聞きしたいのは、バスケットボールを選んだ理由ですが?」
と踏み込んで聞いた。それでもその選手の答えは同じだった。
選手 「ええ、バスケットボールへの献身です」
アナウンサー 「献身?dedicationって何ですか?」
選手 「はい、バスケットボールをすることです。」
アナウンサー 「はあ、バスケットボールをするって??」
選手 「私は、バスケットボールをすること以外は何も考えていません。なぜバスケットボールをやるのかも、NBAのことも、契約のことも何も考えていません。ただバスケットボールをやっています・・・」

 選手は椅子の上でその長身の体を二つに折ってアナウンサーに話しかけていた。穏やかに笑っている顔には厳しさが見られなかったが、それでもその姿には気品があふれていた。アナウンサーは「はあ・・・」といったままでしばらく黙っていた。

「バスケットボールへのデディケーションですか・・・それだけ、それだけですか?」
その選手の前で視聴者としての私も、そしてアナウンサーも凍り付いてしまう。その選手の言っていることはなにも驚くことはないことだけれど、私たちが遠い昔に忘れてしまっていたことである。

 あなたは何をしたいのですか?どの大学に入りたいのですか?会社は?結婚相手は??・・・すべては情熱的な答えか、名誉ややりがい、そしてお金などの答えが返ってくるはずであるし、それが正しいと思っていた。そして誰もがもし「お金ではありません。ただすることだけです。」「私の名誉とかお金ではありません。ただ正しい政治をします。」といってもまったく信じてもらえない時代である。

 でもこの選手の姿勢、言葉使い、そして目の光り、それが真実であることは私にもはっきりと判った。人が何かをしようとするとき、その理由はデディケーションだけで十分なのだ。そして試合に勝つとか、見事なゴールをいれるとかそんなことは問題ではない。ただバスケットボールをすることだけ、それ以外はなにもない、とその選手の顔には書いてあった。

 バスケットボールが好きだというのでもない、ゲームに情熱を注ぐのでもない、観客の励ましでもない、ただバスケットボールをすること、それが彼の全人生なのだ。

 私は爽やかな気分になり、英語を勉強していたことを忘れ、そしてこの選手の言葉が私の生涯の言葉になった。考えてみれば人間は利己的な生物だが、それでいて何かに身を捧げている時が一番、美しく、楽しく、充実している。それは決して自分の為に行動している時ではなく、自分が産んだ子供、自分の教え子、科学、美術、そして社会、自分ではない何かに熱中している時が人間を幸福にする。

 自分一人の生活では美味しい朝食を作るのは辛い。朝はボーとして過ごしたい。でも子どもに栄養のあるものを食べさせようと思うと、朝起きるのはなんということはなく、あれほどベッドから起きるのが辛かったのに、それも何ともない。あれも作ってあげたい、これもと思っている内に一刻は過ぎ、そして楽しい朝食の時間になる。

 それから10年も経っただろうか、NBAのバスケットリーグが好きで好きでたまらないという学生が研究室に入ってきた。私はさっそく下手な似顔絵を描いてその選手のことを話した。どうしてもその選手の名前が知りたかったからである。

 そして彼が私にくれた写真、それがこのページの最初にのせた写真である。写真の左にボールをもって今からシュートの体勢に入ろうとしている選手、その選手の名前はピッペンというそうである。私がテレビの英語番組で会った選手は果たしてこの人だっただろうか?私はピッペンが大きな体を椅子の上で折りたたむようにおしてインタビューに答えた時のことを思い出していた。

 人間はやがて死ぬ。その時、「ああ、自分の人生は良かった」と思って死にたい。それは首相になるとか、社長になるとかではないことは当然である。出世した人、何か大きな発明をした人はみんな不幸である。当時の「世界」を制覇したシーザー、一大帝国を作り上げたナポレオン、転炉を発明したベッセマー、人類最初の空の旅をしたライト兄弟、そして「翼よあれがパリの火だ」といった、みんな不幸な最後を遂げる。苦しみとねたみ、襲ってくる不運と戦い、失意の内に死ぬ。自らの大きな夢を果たして幸福に死んだ人を捜すのは難しい。

 それでは、自分の夢の小さな夢が果たせたときだろうか?大学を出て、会社に入り、裕福な生活をした・・・それは幸福をもたらすだろうか?もちろん、そのような外形的なことで心の満足が得られる訳はない。息子はぐれてしまった、株で損をした、自分より能力が低いのになぜかあいつは出世した・・・心の中は不満が渦巻き、周囲にソファがあり、薄型テレビがあっても幸福ではない。

 出世とか、小さな豊かさとは関係なく、自分が熱中出来ること、目標となることに巡り会い、愛する人に会い、社会に役立つこと、そしてその充実した時間を過ごすことができれば、それは遙かに人生は豊かになり、生きている幸福を味わい、そして満足するだろう。だから多くの人が熱中出来ること、自分が好きなことを求め、時に「自分探し」をする。

 でも本当にそうだろうか?このバスケットボールの選手はさらに深い人生を語った。それは、もちろん出世ではない(第一の見かけの幸福)、豊かな生活ができる給料ではない(第二の見かけの幸福)、熱中できる対象を見つけることではない(第三の見かけの幸福)。普通はそれで最高なのだが、実は違う。

「すること」「生きること」である。バスケットボールをすること、それだけで自分は楽しい時間を過ごす。練習も、試合も、そして結果もその人にとっては何の関係もない。誰の為でもない、社会に貢献するからでもない、バスケットボールが価値の高いものだからでもない。

 ただ、すること、ただ、生きること。

(おわり)