-天気予報-

 地球が誕生した時にはまだ地球も元気が良かった。若い地球はエネルギーがあり余っていたので、早い速度で回転・・・つまり自転・・・をしていた。一日は4時間と30分、実に夜は2時間少ししかなかったのである。寝る暇もない。

 だんだん地球も歳をとって元気を失ってきた。そして地球が誕生してから46億年たった今は一日は24時間である。朝、ニワトリがときの声をあげ、おもむろに太陽は昇り地上を明るく照らし始める。現代の一日、昼の12時間の始まりである。

中央アジアの放牧民がヒツジを追って山間の牧草地に出かける。これもまた太古の昔から変わらない風景だ。ヒツジの一群と羊飼いが通った狭い道路からほのかに土の香りがする。すべてがゆっくりと過ぎていき、そしてやがて夕暮れが訪れる。

 朝、牧草地に向かって行ったヒツジの一群が同じ道を帰ってくる。同じように砂埃をあげてあの狭い道を家路につく。まるで映画のフィルムを逆に回すように単調で静かな風景だ。

 ヒツジの通る道ばたに一軒の家があり、窓の前には小さな椅子がおいてある。朝と違うところは、その椅子に爺さんが座って一杯やっているところだけだ。夕暮れの爽やかな風、ヒツジの群れが巻き起こす土ほこり、そして真っ赤にそまった夕日。その夕日に照らされて爺さんの頬は赤い。

 爺さんが「人生の幸せ」を感じるのは、このような夕暮れだった。今日もまた一日が過ぎ、あたりは暮れようとしている。

 夕暮れは危険である。あれほど穏やかだった山の端に突然として雷鳴がとどろき、驟雨となる。あたりは一変して慌ただしく、誰もが急いで身を隠す。赤く染まった空と穏やかな夕暮れも自然なら、驟雨に逃げまどうのも自然である。自然は優しく、厳しい。自然は人を守り、人を襲う。だからこそ、人生というものがある。

 江戸時代には天気予報というものは無かったので、夕焼けなら明日は晴れと決まっていた。だんだん、科学が発達してくると天気予報というものが出てきたが、でもまだコンピューターや流体力学計算は未発達で、天気図をみて気象庁のベテランが長年の感で明日の天気を予想していた。だから当たるはずもない。

 昭和の初めは、「天気予報」というと当たらない代名詞のようになっていて、「そりゃ、天気予報だが!」といってみんなで笑ったものである。そう、ラジヲで放送される天気予報を聞くぐらいなら、下駄を放り投げてハナオが表になったら晴れ、裏になったら雨という占いの方がずっと正確だった。

 今ではアメダスや気圧をきめ細かく測定し、その膨大なデータをもとにコンピュータ・シミュレーションで予測する。「雨の確率」もすっかり定着して朝の天気予報を聞かなければ外出もままならないようになってきた。

 でも、私は天気予報を見ない。

 突然やってくる夕立、慌てふためいて見ず知らずの店の前に駆け込み、しばしの雨宿りをする。あの皮肉なイギリスの作家、バーナード・ショーの戯曲に「ピグマリオン」というのがある。最近では「マイフェアレディー・イライザ」という洒落た名前に変わっているが、雨宿りに逃げ込んだ数人の人たちを描写してショーらしく鋭い。

 バーナード・ショーの戯曲に登場する女性はみな少しお茶目だったり、なにか精神的に病んでいるような感じなのだが、それはそれは魅力的で戯曲の中の女性なのについ惚れてしまう。「嵐が丘」のキャサリーンや「椿姫」のマルグリットに少し似ている。

バウンダリー小林編集長撮影による

 思わぬ女性との出会いが待っている、そんな風流な雨宿りは現代の日本では期待できない。第一、建築様式が違って「軒先」というものがほとんどない。ビルは道路から垂直に立っていて人が近づくのを拒否しているし、洒落たレストランの店先には雨宿りにはちょうど良い庇がかかっているが、怖いお兄さんがギョロッとした目で見るので、そこを借りることすらできない。

 冷たいビルの壁に跳ね返されるのもイヤだ、レストランのお兄さんに睨まれるのもいやだ・・・結局、私は土砂降りの雨の中を走るのを止めて、やけになり、そして歩き出す。雨は最初、私の少ない髪の毛を濡らすほどだったが、次第に首から胸、そしてズボンの裾までに至る。

 靴がズブズブしてくるのにもそれほどの時間はかからない。そしてそのころになると私は雨の中をずぶ濡れになって歩くのが楽しくなってくる。これが夏なら良かった・・・火照った体を冷やしてくれただろう。でも今は11月の半ば、冷たい雨が私の体を冷やす。それでも家は少しずつ近づいてくる。

 私は家の玄関に飛び込むと、ずぶ濡れになった靴と靴下を脱ぎ、なんとかタオルで体を拭き、そして凍えた指先でやっと風呂のスイッチを入れる。あと、15分の我慢だ・・・そうしたら・・・私は暖かい風呂の中に身を沈めて指先がジーンと暖まってくる幸福に包まれる。何年ぶりだろう、こんな幸福感は・・・

 人が幸福を感じるとき、それは何かの拍子で食事がとれず、丸一日たってほおばるパサパサしたご飯に昆布の入ったおにぎりであり、すっかり凍えた体を温めるお風呂である。決して、高い値段で売っている「こだわりのおにぎり」でもなければ、外から携帯電話で沸かせる風呂でもない。お腹が減ること、体が冷え切っていても15分は待つこと、それが私たちに満足を与える。

 現代の日本人は悲惨だ。どのように生活すれば良いか、事細かにテレビが教えてくれる。もちろん万人に伝えるテレビだから、間違っても「ずぶ濡れになりましょう」などと言えない。それで風邪を引いた人から損害賠償が来るからだ。だからあたりさわりのないことばかりになり、テレビに出演する人はみんな良い子である。

 良い子の人生は詰まらない。感激もないし、起伏もない。それなら最初から生まれなければ良いし、生きるための努力も要らない。人は不幸があるから幸福がある、空腹があるから食事も楽しい、つかれるから寝る楽しみもある、生活が辛いから生きる価値もある。好きな女性に降られるからまたチャレンジしようと勇気がでる。

でもみんな錯覚している。少しでも得で、少しでも平穏な生活を求める。そうすると毎日は単調になり、暇になり、何のための人生かと気持ちすら思くなり、ついに生き甲斐を見失う。

 得をしようとしてはいけない。ビクビクして面白くない。

 気軽に行こう!彼女にまずは愛の告白をしてみよう。成功すればよし、失敗したらやけ酒は苦くて良いものだ。悔し涙に暮れることもできる。

 でかけてみよう!雨が降るかも知れない、電車が止まるかも知れない。ずぶ濡れになるのも、思わず夜中に帰るのも、それからの風呂が良い。決して明日の寝不足を気にしないことだ。人間は一日ぐらい、寝なくてもどうってことはない。それより気に病む方が悪い。

 私はずぶ濡れになる。反省するけれど、反省したら忘れてしまう。幸いなことに1時間前はもう戻ってこないし、昨日は昨日だ。忘れてもどうってことはない。

(おわり)