蒙古襲来

第四話 なぜ日本は強いのか

 モンゴル軍の日本侵略、世に言う蒙古襲来は4話に分けて話を進める。第一話はごく短い紹介であり、第二話が文永の役、第三話が弘安の役、そして第四話が日本がなぜ勝ったかについての詳細な解析である。今回が蒙古襲来の最終回で、「なぜ、日本は強いのか?」の蒙古襲来シリーズはこれで閉めることにする。

4.1.  日本招諭 

 蒙古襲来、日本で言う「元寇」を日本側から見ると、当時の鎌倉幕府の状態や元寇による幕府の衰退,戦いの前後の九州の御家人の変化などが研究される。このシリーズでは、日本と外国、特に日本がなぜ諸外国に対して圧倒的な優位に立つかを調べることにあるので、すこし寄り道をして、当時の元とその関係国の状態を調べることから始める。

 元のフビライが即位したのは,文永の役の14年前の1260年だが,フビライが実際に中国に移って皇帝としての執務を始めてから2年後には「第1次日本招諭」を始める。つまりモンゴルの使いで「黒的」と呼ばれるのが朝鮮までやってくる。

そして、1267年には第2次日本招諭,そして第3次,第4次,第5次日本招諭まで進む.当時,朝鮮の高麗をすでに支配下におさめていたが,三別抄というグループがどうしてもモンゴルには従わなかった.だから、モンゴル本国では日本の招諭よりも三別抄の討伐が先決であるという意見が強かった。世界帝国を築いたモンゴルとしては領土の東方で命令を聞かないのは日本と今の済州島に拠って抵抗する三別抄だけだった。

 そこで,元は日本を征する前に,ずっと小さな三別抄という団体を滅ぼそうということになり,その征討軍として高麗にいたモンゴル屯田軍2000人,高麗の軍5000人,水手3000人,元からの増派軍2000人の合計1万3000人を編成した。

元軍の大将は後の文永の役の司令官となった忻都・史枢・洪茶丘,高麗軍は金方慶だからすべて文永の役と同じメンバーということになる.朝鮮半島からすぐのところにあるといっても大陸とは海を隔てた島に立てこもる三別抄を滅ぼすのにモンゴルは手を焼く。このときも元軍は大風で船を失うなどの損害があったが,1万人を増派してついに三別抄を滅ぼした.

日本軍はときに神風を頼りにするが、このときにも三別抄にとっては神風が吹いている。「神風」もそんなに頻繁に吹いたらありがたみがなくなる。しかし、三別抄にとってはありがたい風だったから、神風と言いたい気持ちもわかろうという物である。本当のところは、「海は陸地と違う。怖いところだ」ということだろう。

 ところで、いよいよ1274年,元の日本遠征軍が朝鮮の高麗に来て,高麗の皇太子タンが元の皇女と結婚,政治を固めた後,征日本軍が高麗から出発した.これが元や朝鮮から見た文永の役であった.ところが計画に反して、この戦いに大敗したので,翌年には日本再征服計画を立案、元軍がまた高麗に入っている.だが,中国ではまだ南宋と最後の戦いをしていたので,元も日本征服計画を中断して、今度は南宋との戦いを優先する。

つまり文永の役の時には三別抄が、そして弘安の役の時には南宋が日本遠征を送らせる役割を果たしている。1279年に宋王朝が滅ぶと,早速,翌年には征東行省が作られた.

 さらに2年後の1281年,東路軍が合浦より出発,弘安の役となるが,失敗.元は征東行省を閉鎖したが,日本の征服計画はなくならない.また征東行省を作ったが,中国南部の広東・福建で頻繁に一揆が起こり,ベトナムも叛し,元はベトナムに遠征せざるをえない.元の力も最初のフビライの時にすでに衰え始めていた.

 元から見ると文永の役というのは,東の日本の様子を見るのに主眼があった.もし簡単に占領できるならそれもよし,ダメなら引き上げようという構えだったと考えられる.朝鮮の三別抄は滅ぼしたが,中国の南には南宋がいる.それにモンゴル軍は混成部隊に加えて草原で馬に乗って戦うのと,海戦とは違う.高麗を征服する時にも騎兵で占領できる所は一気に粉砕したが,江華島にわずかに残った宮廷軍は攻めきれなかった.この籠城軍は20年も立てこもり,最後まで落とせなかったのである.

 江華島に比較すれば日本列島は巨大である。その成功がおぼつかないのはいくら常勝モンゴルでもわかることである。

 弘安の役のフビライの真意はそこにあったと推定したい。

南宋を滅ぼさなければ日本やベトナムに進出するのは無理であるし,南宋を滅ぼしてみると南宋が抱えていた膨大な官吏や兵の待遇に困った.フビライの本心は南宋の官吏や軍人はわずかを残してすべて殺してしまいたかったが,それもできない.いちばん良いのは日本を攻めてその戦いに大量の南宋の官吏や兵を投入して全滅させる、それが第一。そして万が一勝てば,そこに住まわせてもよい、それが心の中だっただろう。聞いてみなければわからないが・・・

 つまり、鎌倉幕府や日本にとってはモンゴル軍の侵入は、負ければ死だったが、元にとっては勝って日本を占領しても良し,負けて旧宋軍が全滅しても良かった.むしろ,江南軍が圧倒的に勝利して日本を占領したら,旧宋軍の将軍にも気骨のある人物はいるから、日本と一緒に独立して元に刃向かう可能性もある。だから,弘安の役で江南軍が海の藻屑となったのは元には嬉しいことだったかも知れない.

 日本人は世界でもまれに見るほど真面目な人種で、戦争は勝つために必死にやるものだと決めている。日本列島には昔から異民族というほどの脅威になる異民族はいない。だから,「国内の異民族」という感覚もない.ウブといえばウブ,純粋といえば純粋である。

 だから味方が全滅した方が良いなど考えも及ばない。

しかし南宋を滅ぼしても、それは政府が滅びるだけで、膨大な旧南宋の官吏や軍を抱えれば、フビライも辛い。モンゴル兵は強いと言っても草原で一気に敵を蹴散らすまでは良いが,もし皆殺しにしなければ平和になった後が困るのである.

このシリーズの最初に示した、
 「モンゴル軍が来た.壊した.焼いた.殺した.奪った.去った.」
という言い伝えは、単にモンゴル軍が残虐な行為をしたという記録以上に、モンゴル軍はそうせざるを得なかったという意味を含んでいる。しかし、フビライは南宋に対して「壊した.焼いた.奪った」まではやったが,「去る」ことはできない。だから,「殺す」のは日本に任せる以外にはなかったのだ。

 フビライの深慮遠謀が江南軍の運命を決めたとするには、少し証拠が足りない。戦う意味も無いから士気は低かったことは容易に類推ができるが、確かではない。しかし、蒙古襲来の日本の勝利の原因の一つが、フビライが勝つ気持ちがなかったということは重要である。

4.2.  神風は勝敗を決めていない

 元寇と言えば神風と決まっている.戦いの筋書きや神風が吹いて、日本がモンゴル軍に席巻される寸前に救われたということもまた判を押したように日本人は記憶している。つまり、「雲のような元の大軍がやってくる.毒矢と集団戦.敗北を重ねる日本軍.あわやという時に神風が吹き元軍が全滅する」という感じである。

 この真偽をまず調べてみたい。ただし、歴史的書物の引用はすべて孫引きである。

 文永の役。『勘仲記』の「文永十一月六日」の条.
 「或人云,去比,凶賊船数万艘,浮海上,而俄逆風吹来,吹帰本国,少々船,又馳上陸上,仍大鞆式部大夫(大友頼泰)郎従等,凶賊五十余人,令虜掠之,皆搦置,彼輩等召具之,可令参洛云々,逆風事,神明之御加被歟,無止事可貴,其憑不少者也」
 モンゴルの軍船に「本国に吹き戻す方向の逆の風」が吹いたと記録されている。

 次に『西大勅謚興正菩薩行実年譜』では,
 「既而以後自西国注進曰.『十一月五日亥刻.猛風頻リニ吹.蒙古ノ大船一百余艘,沈没海中.』」
とある。
 この記録では蒙古軍が遭難したのは11月5日夜であるらしい.また鎌倉時代の高僧で異国退散の祈祷の中心人物だった叡尊の自叙伝『金剛仏子叡尊感身学正記』では,
 「文永十一年甲戌七十四歳/十月五日,蒙古人著対馬.二十日,着波加多(博多).即退散畢.」
とあり,大風の記録はない.

また元寇ではよく引用される『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』は次のような記録がなされている.
 「夜明ケレハ廿一日之朝,海之面ヲ見ニ蒙古之舟共皆馳テ帰ケリ.是ヲ見テコハ如何ニ此方ハコナタヘ彼方ハカナタヘ後合ニ落ル事,コハ何事ゾ,今日ハ九国ニ充満シテ人胤モ無ク滅ビナント終夜歎合シニ,如何ニシテ角ク帰ラン,是者只事ナラヌ消息,泣笑シテ色メキテ人心付キニケリ.」

 「蒙古軍が忽然と姿を消した」とは書いてあるが,「大風にて海没した」とは書いていない.また,「大破した蒙古軍の船が打ち上げられた場所」も書いていない.もしモンゴル軍が帰路につく前,博多湾内で暴風雨にあったというなら,数隻は打ち上げられるはずである。現実には一隻もいない.その夜,モンゴル・高麗連合軍の船隊に吹いた逆風は,撤退する彼らにしてみれば順風だったことを示している。

 『元史日本伝』はどうか.
 「至元十一年冬十月,入其国敗之.而官軍不整.又矢盡.惟虜掠四境而帰.」
とあり,軍の統制が上手くゆかず,矢も尽きたので,行きがけの駄賃で付近を虜掠して引きあげたとある.また,『高麗史』には,
 「(十一月)己亥(二十七日)東征師還還合浦,遣同知枢密院事張鎰労之軍,不還者無慮万三千五百余人」
と連合軍のうち,約半数が生還した.

 弘安の役では東路軍との戦いが一段落した後,閏7月に入った台風で一気に元軍が滅びたのは事実で,その点では紛れがない.しかし、「神風が吹いて勝つ寸前の元軍が滅びた」というのと「負ける寸前の元軍が風で吹き飛んだ」というのは違う.

 弘安の役は東路軍と日本軍で緒戦がおこなわれた.長門の戦いの真偽は不明だが、もし史実なら支隊7000人は長門で全滅した.征東都元帥・洪茶丘が率いる1万8000人は志賀島から海の中道に出たところで敗北した。博多正面の日本軍は4万人であり.防塁に守られ、恩賞というインセンティブもある。「雲霞のごとき元軍」という表現があるが、歴史書が大げさに書いたものと考えられる。

洪茶丘が率いる部隊の損害ははっきりしていないが,大将自身が危うくなったぐらいだから.部隊の損害はかなりあったと考えられる。それに江南軍を待つために壱岐に撤退した後も,そこに停泊もできないほどの日本軍の夜襲に悩まされた.

 平戸で江南軍と合流した時の東路軍残党は,長門の7000人と東路軍主力の1万8000人のうちの6000人がすでに戦死もしくはそれと同じような損害を受けていたから、1万2000人に減っていた.それに江南軍で閏7月初旬に平戸についた戦闘兵は4万人程度だから、モンゴル軍総兵力5万2000人ということになる.これに対して,日本軍は博多にほぼ手つかずの4万人と中国からの部隊2万人の計6万がほぼ新勢力として存在していた。

 鷹島沖まで進出したモンゴル軍は、その夜の台風によって一夜で海の藻屑となったが,もし台風に遭遇しなくても、東路軍はすでに戦う意欲は低かったし、江南軍はほぼ全軍が南宋の敗北兵である。それに江南軍は食糧3カ月分,それに鋤,クワなどの農具を積み込み,日本に屯田として入る準備もしていた.戦に勝って敵国を属国とし、その国民の多くを奴隷として連れて帰るような勢いのある戦闘部隊ではないのである。精鋭の鎌倉武士を中心として編成された日本軍と質が違っていた。

 学校で「元寇の神風」と習った記憶があるかも知れないが、史実はそうでもない可能性があることを理解することができる。

4.3. 日本人の戦い

 弘安の役で博多沖に東路軍が碇を降ろした時のこと,6月6日と記録されている.海での戦いの実相は次にようだっただろう。

 筑前の御家人草野次郎経永は夜陰にまぎれて敵船に乗り込み,一度に21人の首をもって帰ってきた.当時の鎌倉武士は敵の首級をあげてそれを功績にするために必死になっていた。戦に出てきた目的は、戦功をあげて領地の安堵し、できれば増やしたいという希望を持っていた。もし領土を失うようなことがあれば、ご先祖様に申し訳もたたないのである.

 御家人が戦陣を競っているときに、草野次郎経永の殊勲が伝わり、御家人たちはカッと頭に血が上って、我も我もと東路軍の船を目指して押し出していった。いくら夜襲と言ってもモンゴル軍との戦闘になるのだから日本軍にも犠牲が出る.日本側の大将は必死になって鎌倉武士の抜け駆けを禁止するが,いっこうに御家人は聞かなかった。

 翌7日には,出撃禁止も無視して四国から出陣した伊予の御家人河野六郎通有とその一党が出撃した。もともと河野六郎通有は「十年のうちに蒙古が寄せ来たらねば,異国に渡りても合戦せん」と起請文を書いて氏神に捧げ,それを焼いて灰にして飲んだという剛の者。それが思惑通りモンゴルはやってきて、草野次郎経永の殊勲を聞き、いても立ってもおられなくなり、通有は敵船に乗り移るや突撃につぐ突撃を繰り返し,敵の将軍をも捕らえて引き上げてきた.

 経永と通有の武勇はその夜のうちに日本軍に知れ渡り,竹崎季長はその夜,すぐ通有を訪ねて蒙古軍の船中の様子を聞き,軍律を無視して出撃した.

 このような状態だったから、夜の帳が降りると元兵は体の震えは止まらなかった。モンゴル軍にとっては軍律まで犯して個別に突撃してくる日本の武士の行動を信じることができなかった。徴兵された南宋兵や高麗兵はもとより、モンゴルの兵士も海を渡って遠い日本に遠征など来たくはなかったが、楽に占領できるなら士気も高まる。しかし、事実は全く違ったのである。

寝るにも寝れない元軍は次第に鎌倉武士の姿を見ると魔王に見えるようになった。日本の武士は夜盗の如く船に上がってきて首を狩る.刈り取った生首から血が滴っているのに,それを小脇に抱えてさらに暴れ回る.

 どうにもならぬ上に,旧暦6月中旬は新暦の7月末じゃから夏も本格的になる.船に積みこんだ野菜は腐り始め,それがもとで疫病が発生し始める.東路軍は昼には海の中道の戦闘で押し返され,夜は襲ってくる海賊のような武士と戦い,負ければ首を取られる.病魔もおそう.まさに泣き面に蜂という状態だったのである。

 そのような状態になると、「江南軍を待たずに攻撃するからこんな事になる」と不満も募ってくる.東路軍は一旦撤退せざるを得なかった。そして江南軍の到着を待って合流するために,壱岐の島まで引き上げたのである.江南軍を一日千秋の思いで待つ東路軍にとってはそれからの1カ月は辛かった.壱岐に下がっても夜襲に遭っていた。実は江南軍が平戸鷹島に集結したという報を受けた時の東路軍は半分、敗残部隊になっていた。

 日本というのは世界的に特殊は国で、日本人の行動は他国から理解されることはない。家族のつながりが強く、特に血の垂直方向には「個」が存在しない。戸籍がある国は世界で6カ国、夫婦の内、夫が収入を得ているのに妻が財布を握っている国も日本と数カ国に限られる。古代から男女はまったく平等で、陰と陽、虚と実を分担しているに過ぎないのはほぼ日本だけである。

 蒙古襲来が日本の勝利に終わったのは、もちろん台風ではなく、日本人独特の戦の力だったと感じられる。しかし、その結論を出すのはまだ早い。また、元寇については政治的な思惑もあって、なかなかその真実はわからない。正式な歴史の本にはそれほど詳細に記録されていないし、ネットなどには多くの情報があるが、諸説紛々としている。日本の歴史上、重要なこの事件が歴史家によって明らかにされる日を楽しみにしたい。

第4回 おわり