蒙古襲来

第三話 弘安の役

 モンゴル軍の日本侵略、世に言う蒙古襲来は4話に分けて話を進める。第一話はごく短い紹介であり、第二話が文永の役、第三話が弘安の役、そして第四話が日本がなぜ勝ったかについての詳細な解析である。今回は第三話の弘安の役である。

 弘安の役はそれに先立つ文永の役とは比較にならないほど、大規模な戦闘であった。文永の役の時には総大将はモンゴル軍の中枢ではなかったが、弘安の役では総司令官はモンゴルの貴族で,文永の役の時の総大将は東路軍を率いる分隊長にしか過ぎなかった。

 まず、モンゴル軍の布陣を整理する。

 モンゴル連合軍は総司令官・征東行省右丞相・アラカン(アラカンの後任・アタハイ)のもと,東路軍司令官・征東都元帥・忻都,洪茶丘そして高麗軍司令官・征東都元帥・金方慶,江南軍司令官・アラカン,副司令・征東都元帥・范文虎,そして蛮子軍指揮官・夏貴であった.兵力,東路軍軍船900隻,総兵力4万2000人,交戦兵力2万5000人(モンゴル漢民族1万5000,高麗軍1万),非戦闘員1万7000人.江南軍軍船3500人,総兵力10万人(ほぼ全部が南宋軍),交戦兵力6万人である.

 これを迎え撃つ日本軍.まず,北条実政が鎮西軍4万人を率い,博多の防備にあたった.一方,北条宗盛は2万5000人を以て中国地方を固めた.この他,後方では宇都宮貞綱指揮下の日本軍主力6万の兵が,京都から西国方面を守った.敵が九州以外に上陸した場合のことを考え,中国地方・瀬戸内海地方の守備にも兵力を割く必要があった.そのために博多方面の軍勢はすこし手薄になっている。

 よく,蒙古襲来というと圧倒的なモンゴル軍と貧弱な日本軍という印象が行き渡っているけれど,戦力は拮抗していた.緒戦は,東路軍2万5000人と九州守備隊6万5000人で始まり,東路軍が江南軍と合流した後は,総兵力でモンゴル軍14万2000人,日本軍12万5000人だが,戦闘能力としてはモンゴル軍に漕ぎ手が多いことを考えれば,最後まで日本軍が数の上でもまさっていた。

 交戦兵力の比較では、モンゴル軍が6万人、日本軍が12万人だから、人数の上では「日本軍が圧倒的な戦力」だった。もちろん事前に日本軍がモンゴル軍の兵力を正確に把握することができなかったので、「ものすごい数のモンゴル軍が襲ってくる」という報告が来たのも当然である。

 モンゴル軍襲来のシリーズ第二回に書いたように当時の軍勢についての数字は資料によって少し違う。だが、おおよその数字ではそれほど違っていない。ともかく昔のことなので、おおよそしか判らないということで理解をしておきたい。
 
 ところで,東路軍は文永の役と同じ侵入経路をたどり、5月21日対馬,5月26日壱岐を占領,博多沖に停泊して江南軍の到着を待った.しかし、2週間待っても,江南軍はこない.すでに旧暦の6月とは今の7月だから,まもなく台風の季節がやってくる.東路軍は江南軍の到着が遅いのにヤキモキしていた(本当はヤキモキしていたかどうかわからない。本人に聞かなければ判らないが、状況から想像できる。)

軍議が重ねられ、東路軍は江南軍を待たずに博多への侵攻を決意した.その時の交戦兵力差はさらに拡がり、モンゴル1に日本3に近かったと考えられる。



今に残る博多の石垣(日本文化の垣間見「姪友館」のご提供)

 6月6日,東路軍は上陸しようとしたが,海岸一帯には石築地が築かれており,北条実政指揮下の御家人が石塁によって応戦した.沿岸に築かれた石塁は諸国が分担して造ったもので,軍勢は自分の石塁に張りついていた.西から,大隅・日向隊(今の津付近),豊前隊(今宿),肥後隊(生ノ松原),肥前隊(姪浜付近),筑前・筑後隊(博多),薩摩隊(箱崎),豊後・関東隊(香椎付近)という布陣である。

 


弘安の役合戦図(ただし、長門への進軍は異論がある)

 そこで東路軍は志賀島沖で二手に分かれ,300隻,約7000人が石塁のない長門へ向かい,本隊約1万8000人は守備隊のいない志賀島へ上陸したとされる.日本軍は豊後・関東隊を志賀島にむけて迎撃に差し向け,海ノ中道で激戦が始まった.最初の攻撃に失敗した東路軍は2日後の8日に再度攻撃を開始したが大友貞親軍の迎撃で失敗,翌9日の戦いでは関東の武者が東路軍の進撃を止めた.

  日本軍が奮戦したのは数の有利,関東からの武者,文永の役の経験などがあるが,やはり防塁が有効だった。東路軍は1万8000人もの主力がありながら,正面から上陸できず,しかたなく志賀島に上がったが,そこは狭い.押し合いへし合いしているから動きがとれない。戦闘はしだいに東路軍に不利になり,先頭にたつ征東都元帥・洪茶丘があわや討ち取られんとしたほどだった.この方面では13日まで戦闘は続いたが,モンゴル軍は撤収した.

 モンゴル軍が長門に進軍したということについてはその真偽に疑いがもたれている。今の山口県豊浦郡には多くのモンゴル軍との戦いの伝承があり、何らかの戦闘が会った可能性があるが、この地域は源平の合戦などもあり、史実は明らかになっていない。そこで長門の戦いについての以下の記述は想像を交えた物であることを前提にしたい。

長門に侵攻したモンゴル軍支隊は二手に分かれて,博多の方では海の中道で激戦が続いていた8日,指揮官ゴンゴー(伝説上の人物)率いる主力が長門の土井ケ浜から,もう一隊は八ケ浜に上陸したとされる.土井ケ浜では日本軍が迎撃したが,小勢であったためにたちまち抜かれ,滝部から内陸部へと侵攻した.ところが,モンゴル軍が山間の平地にさしかかったその時,長門の守護の主力部隊と関東隊がモンゴル軍を待ち伏せていた。

 「数に勝る」日本軍は左右からモンゴル軍を包囲,足の長い日本流の矢を遠くから浴びせ,突撃して斬りかかった.モンゴル軍は総退却となり,5000人が死に、折り重なる彼らの死体はそのまま地名となり,そこを今では“五千原”と言われている.

 一方,八ケ浜の方は八ケ浜城主がモンゴル軍2000人と戦ったが,敗北し、日本軍は黒井から厚母の線まで退いた.その後、土地の豪族や関東の先鋒隊とともに体制を立て直して13日,モンゴル軍を厚母盆地に誘い込んで包囲・壊滅させた.敵将ゴンゴーは五千原と厚母の敗残兵をまとめ,厚母の北東にある標高620メートルの鬼ケ城山に潜んで脱出の機会をうかがっていたが,日本軍に発見され,総大将ゴンゴー以下,全滅してした.
 
 史実としては数々の疑問があるが、山口県各地には元寇に関する伝承が残っておる.豊浦町黒井には「長門石築地」の跡,豊北町矢玉浦の地名は元寇の戦利品の献上に由来している.土井ケ浜には戦死者を葬ったところがある.日本の兵士を葬った場所は「鎌倉森」,モンゴル側は「鬼松」と呼んでいる。敵兵には可愛そうだが、それも仕方がないだろう。文永の役の時の壱岐の恨みもあり、日本はモンゴルに対して良い感情はもっていない。

 この地方では、最近まで子どもをなだめるときに、
 「いつまでも泣いとったらゴンゴチィが出るぞ!」
と言っていたとも言われる。

 かくして,2方面で敗北したモンゴル連合軍は,さらに疫病の追い打ちを受ける.季節も夏で、すでに出撃前に船内では疫病がはやっていた.これは高麗の伝染病と言われているけれど,長い船旅で疫病がさらに蔓延し大きな損害を出していた.それに博多も長門も負け戦,ゴンゴーの7000人は全滅したので、さらに指揮は低下していた。

 もうこうなれば東路軍は壱岐まで退いて江南軍を待つしかない.ところが,日本軍は追撃する.少弐経資率いる海軍が子息の少弐資時,島津久経・長久兄弟と共に6月29日にモンゴル軍を急襲,少弐資時は戦死するが,7月2日にも急襲を掛け,東路軍はさらに混乱した.

        

江南軍の沈没船(↑)と当時の碇(→)
(名古屋大学年代測定総合研究センター鈴木和博先生ご提供)

 元軍は海戦が苦手と伝えられておるが,そうでもない.『八幡大菩薩愚童訓』に「大船ヨリ石弓ヲ放ツ」とあるように,軍船に投石機を積み,それを日本の船にめがけて用いた.『元史世祖本紀』にも「回回砲手50人が遠征軍に参加した」と記録があり,実際にも鷹島付近でモンゴル軍の石弾が引き揚げられている.でも,そんなことでは日本軍はひるまなかった.松浦党,彼杵氏,千葉氏,高木氏,龍造寺氏の小隊が連続的に攻め,東路軍はたまらず,さらに平戸まで退き,そこで江南軍と合流した.

 江南軍の3500隻に上る大船団は6月18日に寧波を出発した.出発が遅れに遅れたのは,のんびりしていたのではなく、総司令が病気で交代した上に,3500隻を超える大船団だから、狭い港から発進するにも「今日が船出だ」というわけにはいかない.寧波の港だけで3500隻は無理だから,近くの海や舟山列島にも停泊していた。それに10万人の将兵を陸のように簡単に移動させることはできないので、数珠つなぎのように3500隻が連なって出航したのである。

 日本軍の方も江南軍の数は脅威だった。東路軍は撃退したものの,江南軍が到着したとの情報を受けて,執権の北条時宗は宇都宮貞綱に中国勢を率いて救援に向かわせた.ところが,そうこうしているうちに閏7月1日,台風が九州西部を縦断した.閏7月1日というと今の太陽暦で8月23日にあたる.二百十日に近い.九州の北部に台風が襲来しても不思議ではない.東路軍がやってきてからすでに1カ月になる.その間に台風が来ない方がおかしいとも言える.

 モンゴルの大船団の主力はすでに平戸の鷹島や五島列島までの海域に集結していたが、後続の船団はまだ東シナ海を北上中であった,その大船団がはげしい台風に襲われ一挙に波間に沈み,兵は溺れ死んだ.高麗の記録によると,
 「蒙古軍の還らざるもの,無慮(およそ)十万ばかり,高麗軍の還らざるもの七千余人.」
と伝え,各王朝の公的記録で王朝に都合の良いように記録されるはずの『元史』でも,
 「士卒の存するもの,十のうち一,二・・」,
 『日本外史』は
 「屍が海を覆い,海の上を歩いて渡れるほどであった」
としている.

 ところで,嵐が去って見ると鷹島に1隻の軍船と2000人の元兵が残っていた.それに御家人が群がり容赦なく掃討する.この残党狩りでは,元寇で名を馳せた,かの竹崎季長も知り合いの御家人の船に乗り込んで敵の首を取って帰ってきた.
 「弓箭の道,進むをもって賞とす.」
 かくして弘安4年7月7日,すべての戦いは終わった.異民族との争いはモンゴル軍の全滅で終わった。

第3回 おわり