第一話 モンゴルの世界制覇
モンゴル軍の日本侵略、世に言う蒙古襲来は4話に分けて話を進める。第一話はごく短い紹介であり、第二話が文永の役、第三話が弘安の役、そして第四話が日本がなぜ勝ったかについての詳細な解析である。
1. モンゴルの世界制覇
1206年,モンゴル族の統一を果たしたジンギスカンは,疾風怒濤の勢いでユーラシア大陸を席巻し,史上空前の巨大帝国を築いた.その時のモンゴル騎馬軍団の侵略と暴虐は有名である.
「モンゴル軍が来た.壊した.焼いた.殺した.奪った.去った.」
とは,モンゴルに征服された中央アジアの国の哀しき言い伝えである.
トインビーが言っているように、民族は長い間、垂直の崖にとりついてジッとしているが、ある時、刺激を受けて急に動き出す。歴史とはそのようなものだと記している。モンゴルもまた13世紀に目覚めた民族だった。
ジンギスカンの孫にバツー将軍が15万のモンゴル軍(モンゴル兵5万人, トルコ兵7万人,その他3万人と言われる)を率いてロシアの平原に出現したのは1241年,日本に蒙古が攻めてきた文永の役の33年前のことである。蒙古軍はポーランドまで進むと4月9日リーグニッツから数キロ離れた平原でポーランドのシレジア候ヘンリックⅡ世率いる3万のポーランド・ドイツ・モラヴィア諸侯連合軍がモンゴル軍を待ち伏せ、ここで東西の激突になった。しかし、戦いの勝敗はたちまち決まり,ヘンリックは首級を上げられたのである.
モンゴル軍は敵の死体から片耳を切り落とし,それを皮衣にいれて数を数えたと伝えられている.モンゴル軍の残虐性という先入観がある我々は素直にこのことが事実のように聞こえる。史実かどうか疑問であるが、弘安の役で日本軍が5000のモンゴル兵を殺戮したと言われる丘陵地帯が「五千原」と名付けたとされるように,それ以来,リーグニッツ平原を「ワールシュタット」,(死体の山)と呼んだ。
地名の由来は多くは史実で検証されず、伝承によって曖昧に伝えられる。だから後生に生きる私たちは、歴史の中でそのよな伝承もあったのだなと理解する必要があるだろう。この場合もそうで、弘安の役にモンゴル軍がまとめて5000人殺戮されたという話は疑わしい。
ともあれ、モンゴル軍はドナウを渡ってハンガリーに侵攻,翌年の4月1日のシャヨー河畔でハンガリー王ベーラⅣ世の軍を全滅させた.フランスのテンプル騎士団長ポンセ・ヂュポンはフランス王ルイに「タタールがドイツを征服するのが神の意志だとすれば,戦いの重圧は陛下にかかります」と警告を発したとされているが、当時のヨーロッパは封建制のもとにあり、国は諸侯が力を持っていた。そして、当時の「モンゴル軍問題」は戦闘と信仰が混じり合っていたことも理解できる。
あわやヨーロッパ全土がモンゴルの支配に落ちるかと思われたその年の12月11日,大汗オゴタイが死に,バツーは東西に引き返した.もちろんルイは「神の恩寵」と感謝したのは言うまでもない.オゴタイの死はヨーロッパにとって神風であった。
歴史が決定論で支配されるか、それとも複雑系の中で偶然の要素を含むかは歴史学者の中では昔から論争のあるところである。大汗オゴタイの急死がなければヨーロッパはモンゴル軍に制圧され、その後の歴史が変わったのかそれは歴史の中に埋没する。
以上は、モンゴル軍のヨーロッパ侵攻について一般的に語られるところであるが、実は、ワールシュタットの戦いの様相はそれほど簡単ではない.破れたヘンリックは散々に言われるが、ヘンリックとて、馬鹿ではない。彼は彼なりにモンゴル軍を討ち取るべく、全軍を5陣に分けてモンゴル軍を誘い込んで撃滅する作戦だった。
ところが、モラヴィア辺境伯嫡子ボレスラフが第1陣を率いていたが、まだ戦闘の経験が浅く、初戦でモンゴルに軍に勝利すると、それが偽装退却作戦であることに気づかずに深追いしたと言われる。これも本人に聞いてみなければ判らないが、草原での戦いでモンゴル軍が常用した引き込んで取り囲む作戦にひっかかり、あえなく全滅してしまったという話は理解できる。
さらに、戦いはすすみ、モラヴィア辺境伯を救おうと、2陣,3陣も壊滅した。またポーランド連合軍の一部は重装備の騎士団だったがほとんどは農民によるにわか仕立ての歩兵であった。このような理由があってワールシュタットの戦いはモンゴル軍の圧勝に終わったが、モンゴル軍もそれほど楽勝したわけではないと思われる。それは、勝ったモンゴル軍は戦場の近くにあった堅固なリグニッテャ要塞を陥とすことはできなかったからである。
チンギスハーン フビライ在位
(在位1206-1227) (第6代大汗1260-1271,
元朝初代皇帝1271-1294)
その後、モンゴルは中国に侵略、宋は敗退して南で南宋となる。その南宋が滅びる前後、モンゴル、つまりすでに元という中華帝国を開いていたフビライ皇帝は日本にその触手を動かす。
モンゴル帝国建設から62年の文永5年,王朝「元」からの国書が高麗を経て鎌倉幕府に届いた.
「上天眷命
大蒙古国皇帝,奉書
日本国王,朕惟自古小国之君,
境土相接,尚務講信修睦」
ずいぶん、傲慢な国書の内容で、日本にとって屈辱的な内容を持っていることは言うまでもない。そして、日本は強気にでて、戦いとなった。その経緯は多くの歴史書に書かれているので、ここでは割愛する。このシリーズの注目点は日本がなぜモンゴルに勝利したかということである。だからこの文書以来、蒙古襲来に至る経過はすべて割愛して直ちに戦いに進みたい。
第1回 おわり