幻想としての狂牛病
狂牛病の整理を1から5までしてくると、狂牛病の騒ぎはいったい何なのかという疑問が湧いてくる。どんなに考えても日本に住んでいて普通に牛肉を食べても狂牛病にならないのに、牛肉を食べるのが怖い、これはいったいどういうことなのだろうか?
「安全な」狂牛病が「危険な食物」として大騒ぎになった理由がいくつかある。
一つは、「種の壁」についての誤解だった。動物の病気が人間に感染するのはそれほど珍しくないけれども、一般的によく知られてはいなかった。たとえばインフルエンザはごく普通の病気で、しかも簡単に「種の壁」を超える。たとえば狂牛病の最初のころ、この病気の解説をする人が「ウシの病気が人間に感染するといっても、それ自体は驚かなくて良い」と言えば騒ぎはなかっただろう。
でも、つい大げさに「種の壁」などと解説したのも原因した。
第二は、狂牛病の感染力がどの程度であるかが判らなかったので、不安をあおるような数字が出てしまった。最初のころ、イギリスの推定される狂牛病の患者の数は数百万人などと言われた。実際には現在の患者数が137人、これから万が一、増えたとしても最大で300人ていどとされている。推定値と実際の患者の数に、1万倍も差がある。
なににしても予測はむつかしい。専門家でも感染力などがわからないうちに危険性を予測するのは大変だから、「誤差」があるのはしかたがないが、10,000倍も違うのはいただけない。
すこし厳しい言い方だが、間違った予測をした人は、今後、専門家と呼ばないようにするか、その人がテレビにでて謝るほうがすっきりして良い。
第三に、イギリス政府が、最初の患者がでた段階で、「ヒトに感染する可能性がある」という情報を流さなかったことである。イギリス政府がヒトへの感染を認めたのは、1996年で、いかにも遅かった。「ウシの狂牛病は人間に感染する可能性がある」ぐらいのことは言っておいた方が良かった。
でも、このことをイギリス政府の責任だけにはできないところがある。最近のわたし達は、政府や公的な機関が「安全宣言」をして欲しいと思うようになった。そして、マスコミはわたし達の気持ちをくんで、「絶対に安全ですか?もし患者がでたら責任をとりますか?」と聞く。
本当は、この質問はナンセンスで、「絶対に安全」などこの世にない。 無いものは言えないので、本当は、「食中毒より安全」「交通事故より危険性が少ない」と答えるのが正しい。
でも、責任ある立場の人がそう答えると「絶対に安全ではないのですね?もし患者がでたらどうするのですか?」と切り替えされて立ち往生してしまう。正しく答えれば非難されるので、「絶対に安全になるまでしません」などと言ってしまう。そうすると事実はわからなくなってしまう。
著者はこのような話し合いの論理を「言いがかりの論理」と呼んでいる。相手はすでに自分が聞きたいことを言っているのに、相手をやっつけるために、その真意をとらないで、別のところに話を持って行ってしまうことを言う。
わたし達は狂牛病の危険性を知りたいので、この世の中のすべてのものが、すこしは危険であることは先刻、承知している。言いがかりの論理で質問しても意味はない。
最後に、「狂牛病は20世紀になって初めて発見された」と言われたこともわたし達の不安をあおった。
さらに追い打ちをかけるように、「20世紀になって、つぎつぎと新しい病気が発見される」と言われるので、「どうも、何か変なことが起っているのではないか?このままでは人類は滅びてしまうのではないか?」との不安がよぎる。
でも、これは事実ではなく、一種の言葉のトリックである。
近代科学が誕生するまで、病気の原因は「悪霊」であるとされていた。「病原体」というのを知らないし、顕微鏡で見たこともない時代には、病気の原因を知ることはできない。それでも人間は「なぜ、病気になるのか?」という疑問がわいてくる。そして、人間の心は、断定的に決めておかないと不安に駆られので、とりあえず「病気は悪霊」としていた。
近代医学の父、パスツールが「生きているものは生きているものからしか生まれない」という有名な「鶴首の実験」などが行われて、どうも病気は「病原体」という小さな生き物が原因らしい、という確信がもたれたのが19世紀も終わりのころだった。
だから、「20世紀になって発見された病気」というのは、20世紀にあたらしくできた病気ではなく、昔からあったのだけれど、その病原体や感染経路がわかったということである。
この「発見」という言葉の使いかたは間違っていない。
たとえば「コロンブスのアメリカ大陸発見」というのと同じで、コロンブスがアメリカ大陸を発見するまでアメリカ大陸がなかったわけではない。アメリカ大陸は昔からあり、そこに人間も住んでいたのだが、「ヨーロッパ人としてはコロンブスが初めてアメリカ大陸を見た」ということを「アメリカ大陸発見」と言っている。
これと同じ表現をすれば、1913年に「発見」された23三歳の女性が初めての狂牛病の患者ではなく、パプア・ニューギニアで「発見」されたクールーの患者も、発見されたわけではない。昔から病気はあったけれど、それが医学的に特定されたという意味である。
「二○世紀になって続々と新しい病気が出てきた。これは何か我々の文明にまちがいがあるからだ。」
という誤解がそのまま社会の常識となってしまったのである。
これを前向きにとらえれば、医学が進歩してきたので、多くの病気は20世紀に発見されだした。だからもうすぐ、病気は無くなるかもしれない。」と明るい方向にも言うことができる。
ところで、エルンスト・ルスカという人がいる。
電子顕微鏡の発明で一九八六年にノーベル賞をとった彼は若い頃、
・ ・・光学顕微鏡よりもう少し小さな世界を見ることができれば、ウィルスのような病原体を捕まえることができる・・・
という夢で電子顕微鏡の研究を始めた。彼の伝記を読むと面白い逸話がいくつかのっている。
その一つ。
新婚当時、毎日、夜遅くまで実験室に閉じこもる新郎に新婦がジャガイモとソーセージを暖めて持ってきてくれた。
「実験室のドアーを開けると、電気で髪の毛が逆立った彼が立っていました」
と夫人が思い出を書いている。
ルスカがノーベル賞をとったのが、いまから一八年前だから、人間と病原体でお互いの「顔が見える戦い」が始まったのはつい最近なのである。
まだ、発見中の病気も多い。
2002年の春にマダカスカル島で発生した奇病は二週間でたちまち153人の人が死亡、原因はコウモリからブタ、ブタからヒトに感染するウィルスではないかと疑われた。これがイギリスや日本などの先進国なら大騒ぎになっただろうが、流行した場所が先進国ではなく、マダカスカルだったので、それほどの社会的関心を引かなかった。
最近になって「発見」されている鳥インフルエンザやサーズ(SARS)などでも、「人類はもうダメだ」というような大げさな話になっているけれど、大昔からウィルスはいつもすがた形をかえて人間を「襲ってくる」。いや、むしろ「襲ってくる」という感覚自体が、わたし達が自然と共存していない証拠かもしれない。
もともと、ウィルスや細菌は生物の進化とともに歩んできて、人間という種が誕生したのもウィルスのお陰という説もあるくらいである。そして、ウィルスや細菌は危険でもあり、生活に欠かせないものでもある。
腸のなかには役に立つ細菌が多いし、家の外には膨大な数の細菌が活躍して腐ったものや有毒なもの分解してくれる。もし細菌が活躍してくれなかったら、世の中には臭くてどうしようもない。
食の安全と狂牛病のまとめをしたい。
「ウシ」は安全である。
牛肉を食べると狂牛病に感染すると心配されているが、日本で牛肉を食べて狂牛病になることはまずできない。つまり、毎日、牛肉ばかりを食べていても、狂牛病にはなるのは大変である。その理由と、どうしたら安全かを本文に詳細に整理をした。
「狂牛病が危ない」「ウシを食べたら死ぬ」というのは、作られたマボロシであり、幻想におびえてて不安になる方が、かえってストレスで健康を害する。
この不安はマボロシなのだから、狂牛病の実際をよく知ったら、「狂牛病」という言葉そのものを忘れたほうがよい。
(その6終わり)