「散歩」を好む人は多い。おそらくは歩くという行為は人間がサルから進化して二本脚で歩くようになってから、人間に備わった基本的な機能の一つだからだろう。

 特に、まだ涼しい風を感じることができる五月、雨上がりの昼下がりに明るい陽光が照らす新緑の街路樹の中を歩くのは最高である。時折、赤いテラスを出している喫茶店があれば、さらに人生は楽しくなる。

 哲学者カントは毎日毎日、決まった時間に決まったコースを散歩することで有名だった。散歩は体の細胞を活性化するので、気分も良くなるし頭も働く。だから哲学者には無くてはならない小道具なのかも知れない。

 こんなに散歩というのは楽しいものなのに、通勤や通学で家から駅までというと10分でも遠く感じるし、5分で駅まで行けるならそれに越したことは無いと思う。同じ「歩く」という事なのに、なぜ散歩の時には30分近く歩いても何ともないのに通勤時には駅まで15分でもイヤになってしまうのだろうか?

 散歩は気が向いたらだけれど、通勤は毎日だからという理由もあるだろうが、散歩を毎日する人も多く、カントもその一人だ。だから毎日ではないから散歩は良いが、毎日の通勤はイヤだというのでもなさそうである。

 また、自宅から家まででなくても、外出先で駅に降りて先方まで徒歩15分と聞くと途端にタクシーに乗りたくなる。だから、毎日だからイヤだという訳でもない。

 散歩は自由意志だが、通勤は強制的だからと言うのは少し当たっているだろう。でも、私の場合、大学に行くのは強制的ではあるが、まったくイヤではない。その証拠に土曜日や日曜日でも、大学に出ても苦痛も無ければ損したという感じもない。それでも、自宅から駅までの道のりは散歩とは違う。

 少し前に、欧米人の「キー」というのを紹介したことがある。列に並ぶことだが、彼らは日本人ほど列に並ぶのを苦にしない。苦にしないどころか時には列に並ぶこと自体を楽しんでいるように見えて、私のような日本人には信じがたいところがある。

 なぜだろうか??なぜ、散歩は楽しいのに、駅まで5分なら土地も高く、15分なら安くなるのだろう?もし、人間にとって歩くのが楽しいなら駅から遠い住宅の方が環境も良いので高いはずなのに???

 この奇妙な現象を私は次のように解釈している。

 人生には「目標」が必要であるという。特に小学校の先生は子供に目標を持たせようとする。「君は将来に何になりたいの?」と聞かれない人はいないだろう。目標を持って生活をすることは人生にとって大切なことだとみんなが確信している。

 将来、立派な技術者になるのだ、だから僕は勉強する、将来・・・になるのだ、だから・・・・と目標に向かって努力する。

 でも本当だろうか?なぜ、目標がいるのだろうか?散歩には歩いて行く目標はない。ただ歩いて元の所に戻ってくるだけだ。それに対して通勤では「駅に到達する」という目標がある。目標はあった方がよいのだろうか?

 本当は人間にとって歩くのは楽しい。でも、目標も無く歩くのは楽しいのだが、目標があると途端に辛くなる。それは「目標に到達しなければならない」と思うからだ。駅まで半分ぐらい歩くと「あと半分」と思う。そしてそれは楽しみから義務に代わり、時には苦痛になる。
 
 列に並ぶのもそうだ。列に並ぶのは、並びたくて並ぶのではなく、切符を買いたいから、トイレに入りたいからという目標がある。もし、何の目標も無く列に並ぶのなら、列は長い方が良い。あまり短い列ではすぐ先頭に来てしまうからである。

 列に並ぶのは、切符を買うためではなく、列に並んでおしゃべりをし、その付近を通る人を見たり、外の雰囲気を楽しんだりするためだ。一人でボーッと立っていたら職務質問を受けるかも知れないが、列に並んでいればゆっくり観察を楽しむこともできる。

 せっかく街に来たのだから、用事だけそそくさと済ませて帰るのは残念だ。その点では列が長くて時間がかかればかかるほど良い。

 勉強でも運動でも料理でも、人間は「すること」は楽しむことができる。でもそれに「目標」が付くと途端に苦痛になる。大学に入学する、甲子園に行く・・・そういう目標は楽しい行為を苦痛に変える。

 人生にとって「目標」とは苦痛を与えるだけであり、人生を暗くする。

 人間の一生は常に楽しいもので、毎日、朝起き、顔を洗い、お化粧をし、靴を選んで外に出る。外はにぎやかな人通りがあり、たまには買い物や一杯やることもできる。

 その楽しい一日は目標に近づかなかったかも知れない。でも楽しかった。そして楽しい毎日を過ごしている間に私の人生も終わった・・・そんな「途中の人生」、それが良いように思う。

おわり