ファンティーヌは愛する男に捨てられ、娼婦に身を落とした女だったが、ジャン・バルジャンは彼女を愛し、その娘コゼットを引き取った。薄幸の女、ファンティーヌへの愛と、小さな頃からコゼットを育ててきた苦労がジャン・バルジャンの体には染みついている。
どん底の生活をしていたコゼットは少女時代を悲惨な環境で育ち、やせ細った体、恐れおののき誰にでも反抗するコゼット。それはどう見てもまともな人生を歩くことができないように見えた。
それでもジャン・バルジャンの愛情がコゼットを地獄から救い、やがてコゼットは美しい娘に成長し、パリで青年と恋に落ちる。ファンティーヌの夢としてのコゼット、幼き頃の想い出、それがジャン・バルジャンの胸に去留して、その青年との恋に反対する。
激しく父親に食ってかかるコゼット。コゼットには母親の記憶も無ければ、育ての父親が自分を救い、さらに幼い自分を背負ってパリの城壁を昇ったことも思い出すことはできない。この愛する父と娘の間には越えがたい「認識の壁」があった。
父親には小さかった娘を苦労して育てた思いがあり、夢も託している。でも、娘は幼い頃の記憶は無く、まして今は亡き母親との悲惨な生活を覚えていない。自分は自分の生活であり、人生なのである。それでよい。父親もコゼットも間違っていないが、それでも争いになる。
親と子は環境が違う、男と女、老人と若者、中国人と日本人・・・すべて生まれ育った環境が違う。だから夢も違えば正義も違う。遠く離れ、時代が違えば正義はさらに別のものになる。でも一緒に住み、一緒に生活しなければならない。そこには確執が生まれることもある。
お釈迦様がインドでお生まれになってから600年後に、パレスチナにイエス・キリストが誕生された。お二人は同じ夢、同じ正義だったが、その周りの凡人はその人の環境の元での夢と正義を持ち、やがて「異教」となる。それぞれの信者は敬虔で謙虚でも宗教間の争いは時に血なまぐさい。
自分が「これが正しい」と信じた時に、それと異なる正義を唱える人を認めるのは難しい。なぜなら、相手の正義を認めれば自分自身を否定するからである。でも、「君は間違っている」という発言は、それ自体が「間違っている」。相手も「君は間違っている」と言うだろうからである。正しくは「君が正しいのだろうが、私は違うと思う」というのがせいぜいだ。
だから、愛し合っている父親と娘でも「意見」は合わない。中学の同窓会にもなれば友人同士でさえ考え方は違う。人それぞれに正義は違い、希望も夢も、そして見るものも違う。
異民族同士が分かり合うことができなければ戦争になる。でも、異民族同士が「正義」を共有することはほとんど不可能である。いくら歴史認識を統一し、往来を激しくしても、環境の違う社会で生きてきて正義を共有することはできないのである。
そもそも正義とはあやふやなもので、自分の正義も簡単なことで打ち破られる。人生を送っていく上で、とりあえず決める正義ぐらいしか、人間には正義を決める力はない。おそらくお釈迦様、イエス様、マホメット様ぐらいにならないと正義は共有できないだろう。
社会の多くの諍い、人間関係のもつれ、不快感などは「正義の違い」から来る。それも人生を送っていく上で必要な「1000の正義」の内、2,3でも違うと大げんかになる。その違いが段々、胸の中で増殖し、夜になると大きく膨らんで自分の前に立ちふさがるのである。
「あいつが憎らしい!!」
私はそんな時、ジャン・バルジャンとコゼットが対決するシーンを想い出す。
「ああ、あんなに共に苦労し、生死をさまよい、そして幸福を掴んだ父と娘でも、喧嘩になることがあるのだ。自分の正義は自分の胸の中にだけしまっておいて、憎い人の正義を受け入れよう。自分はそれほど偉くないのだから」
親に孝行することができないことがある。でも愛情は正義も孝行もすべてを越えて胸の中にあり、それが我々を救う。
おわり