事実は信じない、希望を信じる。

 「進化論」を著したチャールス・ダーウィンは一人の科学者として実に誠実味にあふれる人であった。その人柄はダーウィンの著書である「進化論」の書き方そのものからも感じることができるが、ダーウィンについて残された多くの「逸話」によっても知ることができる。

 ところで、ダーウィンの「進化論」は
「ヒトはサルから進化してできたのであって、神に似せて作られたものではない」
という事実を指摘したものである。進化論自体は科学の著作物であるが、人の価値観に直接関係することだったからその社会的な衝撃は大きかった。

 だから、今では多くの人に受け入れられているこの「進化論」も発表された時は、激しい非難がダーウィンに浴びせられた。歴史的に見てもこのような大きな発見で、人間の思想の変化を強いるものがスムースに世の中に受け入れられるはずもない。ガリレオは地動説を出して、社会からも宗教界からも反撃を受け、投獄されるときに「それでも地球はまわっている」と呟いたという。

 いつの世でも先駆者は辛い。

 ところで、進化論の時には、ダーウィンは一人では無かった。反ダーウィン派に対して、ダーウィン派もでてきて、激しい論争が始まった。でもダーウィンは学究派の人で論争や公の場所での演説などは苦手だったから、ダーウィンの友達で自ら、「ダーウィンの番犬」と名乗ったトマス・ヘンリー・ハックスリーが奮闘し、反ダーウィン派のキリスト教の牧師と激しく争う。

 その論争の中には歴史的に有名な、1860年6月30日のオックスフォード博物館で行われた「オックスフォード論争」がある。反ダーウィン派にはイギリス国教会のサミュエル・ウィルバーフォース主教が代表格で、ダーウィン側はハックスリーである。

 もちろん、反ダーウィン派の人たちは、ダーウィンが苦労したこと・・・世界中を回って動物を観察すること・・・などはしていない。狭いイングランドの周辺から自分の都合の良いように判断しているだけだ。知識に乏しく、利害関係を重視する人たちと、科学者の議論はたとえ話し合いの場がもてたとしても真実に近づくことはない。むしろ、だんだん、感情的になり、真実から遠くなっていく。

 ダーウィンはその著書の中で、
「そう考えるのが嫌なことでも勇気を持って考えれば真実が判る」
と言っている。彼は、社会の人が「自分の先祖がサルだ」と考えたくないことはしかたないけれど、時には事実は自分の希望に沿わないこともある。そんなときには勇気をもって事実を見つめるのだと諭しているのだ。


(ガラパゴス諸島のイグアナ)

 ダーウィンは事実を数多く観測し、整理して考えを導くタイプの学者であった。彼が「動物は進化する」と言う事実を見いだすのには、ガラパゴス諸島の様々な動物の観察や、膨大は動物学の知見に基づいていたのであって、もちろん空想ではない。

 そして「進化論」を発表してからの40年間でもダーウィンは古い自分のノートや様々な他人の観察を整理し、それを研究論文の形にして発表している。著書16冊、論文152編という業績はダーウィンが飽くことのない研究者であったことを示している。

「私の心は収集した大量の事実から一般法則を絞り出す一種の機械のようだ。」
とダーウィンは自らを驚いたように言っている。ダーウィンの人柄と彼と共に生き、世間から非難を受けることが多かった研究を支えたエンマ夫人の肖像が残されている。

 1908年、ダーウィンが住んでいたイギリスのダウンからわずか40キロメートル離れたピルトダウンという町から一つの人骨が発見された。発見したのは素人の化石収集家であったドーソンであり、その人骨の鑑定を行ったのがロンドンの大英自然史博物館の古生物学者ウッドワードだった。

 この結果は発見から4年後に地質学会で発表され大きな反響を巻き起こした。このピルトダウン人の骨の特徴は、頭蓋骨が大きく、口の当たりはサルの特徴を持っていた。サルとヒトとの間のこの人骨は、
「サルからヒトへ進化するとき、まず頭脳の優れた特別なサルが誕生し、その後だんだん体が変化してきた」
とする当時の考え方を裏付ける人骨だった。

 ダーウィンの言うように、ヒトはサルから進化したかもしれないが、やはりヒトはサルとは、「質」が違う。ヒトの最大の特徴は文化を生み出すその頭脳であり、そこにサルとは全く違う意味がある、と人間は信じたかった。そして、ビルとダウン人が発見された地層は「更新世」のものでいまから実に200万年も前というのである。そんな前からヒトはサルとは違った生き物だった、そう思いたかったところにビルとダウン人が発見されたのだ。

 「ほら見たことではない。やはり、ダーウィンは間違っていた。」とイギリス中がわき上がった。人間はサルとは違う。人の頭脳はサルから進化したのではない。特別のルートでこの地上に現れたのだ、良かった、と人々は安心した。

 この人骨は発見したドーソンの名誉を刻むために「エオアントロプス・ドーソニ」という学名が付けられていたが、発見から40年後、この骨は人間の頭蓋骨とオランウータンの下顎部を組み合わせた偽物だったことが判った。インチキだった。

 なぜ、そんな簡単なトリックを考古学者は見破ることができなかったのだろうか? それはビルとダウン人の骨は「事実」ではないが「人間の希望」とは一致していたからである。

「人は真であってもらいたい、と願うものを強く信じる」
とフランシス・ベーコンは「ノヴム・オルガヌム」に書いている。

 そして、ダーウィンはさらに言う。
「もしも故意に目を閉じることさえしなければ、今日の知識によって、人間の先祖からの系譜を書くことができる。それをわれわれが恥ずかしがることは無いのだ」

 現代、すでにあらゆるものが合理的になり、迷信がなくなり、科学が発達しているのだから、事実は事実として認められ、希望が事実になることはないと思われるがそうでもない。そんな現代でも、人は「希望を事実と信じる」のであって「事実を事実と信じる」のではない。

 事実というのは実に難しいものである。目の前にあるものが事実であり、繰り返されるから事実だと言うこともない。人間の目はある特別の条件の下にあるものが見えているだけで、見たものその物が真実ではない。太陽は毎日、東からでて西に沈む。どう見ても太陽は動いているし、毎日、繰り返される。でも太陽は動いていない・・・そんな例はいくらでもある。

 真実を知ることは難しいので、人は事実を信じるのではなく、希望を信じるようになった。でもそれだからこそ、人は無意味な人生でも楽しく、張り切って生きることができるのだ。

おわり