命は海の水から誕生した。生命を持つものは動き、命を持たないものは動かない。でも、海の水は風で動き、潮は満ち引きする。砂浜に寄せては返す波の動きはまるで生きているようだ。海の潮は意志無く動き、象が動くのは意志だというのも思いこみだろう。アメーバには脳がないが、それでも活発に動く。
だから地球が誕生してわずか9億年で命が誕生しても不思議ではないかも知れない。地球も命、海も命、波も命だから誕生し、成長し、動き、藻掻き、そして死ぬ。
それでも、生物のような命を持つものの出現は地球の様相を変えていったことも確かである。かつて私は、地表にある砂や鉱石が生成していく過程を勉強した時、それがすばらしく見事で綺麗であることに感心したものだ。でも、そこに働く「原理の数」は少なく、プロセスは単純だった。
軽い物質は浮き、重たい物は沈む。沸点の低い物は飛ぶ。あまりに軽い物は地球から逃げてしまう。すべては物理法則によっているし、方向も結果もわかりやすい。だからこそそこで生成するものは単純で美しい。
ところが生物ができて地球は多様になった。ある生物は柔らかく、ある生物は固い。群生するものもいれば、単独で生活する種もいる。大発生するもの、細々と生きるものもいる。おそらくは頑固者も皮肉屋もいただろう。DNAの多様性だけ多様だった。
今に残る上の写真に写った景色は30億年前と変わらないという。ただ、海の色は濁っていただろう。まだ還元性の鉄が海に溶けていた頃だからである。
このストロマトライトが群生し、それが長い時間に堆積して化石化していった。でも、彼らは今の私たちと違い1000年などという時間は短い。30億年生きてきたストロマトライトにとっては35億年前の祖先が33億年前に化石になっていたのだ。
自分の祖先の化石のなかで生きるストロマトライト。そこにはすでに「生命で形作られる星」の兆候が見られたのである。大きく変貌する地球。顕微鏡でしか見ることができないほど小さな生物の働きは地表の様相を変えるぐらい激しかった。
そして、やがて生物は単細胞から多細胞になり、そして雄と雌に分かれる。
生物がオスとメスに分かれているのも不思議だが、多細胞という仕組みも実に不思議である。私たちの体もそうであるが、細胞はその一つ一つで「命」を持っている。足があり、手があり、顔がなければ生命ではないということはない。アメーバでも細菌でも命を持っている。
それと同じように、私たちの体も「一つの命」ではなく「細胞だけ命がある」ということだ。私たちがこの世に生を受けるのは「細胞の集団がまとまって命をいただいている」ということであり、この世から去る時にはそれまで一緒に生活をしてきた体の細胞がまとめて共にこの世を去ることである。
私の足の指はそれだけで必死に生きている。決して「頭」のために生きているのではなく、自分自身で生きている。体全体のために犠牲になることは厭わないが、かといって頭の細胞より足の細胞の命が下等などという序列があるわけではない。
頭も無ければ生きていけないし、足がなければ歩くことができない。それぞれそれなりの役割を持ち、それぞれに生きているのである。爪を切り、髪の毛を散髪してもらうとき何か申し訳ないと感じる。
私は「スミス氏の散髪」という話が好きだ。ある時、スミス氏が床屋に行き散髪をしてもらう。ふと、目を床に向けるとそこに今まで「自分の体の一部」だった髪の毛が散らばっているではないか? あの髪の毛が自分なのか、それとも床屋の椅子に座っているのが自分なのか?
でも生命とはそういうものであり、それが多細胞というものである。そして体が多くの命でできているように、この地表もさまざまな生物が行き、それぞれの個体は分かれているようで全体としては一つの生命体として活動する。それを生態系と呼ぶが、生態系を一つの生物の名前としてもそれほどは間違ってはいない。
多細胞は命の集合体であり、それは同じ意志を持っている。驚くべきことだ。私が「歩こう」とすると足の細胞は全員が協力して同じ方向に足を運んでくれる。少しは反骨精神にとんだ細胞がいて、歩くのはイヤだといっても良さそうに思うが、おおよそは私の言うことを聞いてくれる。でも、いざとなると抵抗する。走りたいけれど足が痛くて走れない、どうも細胞が疲れている時には、いやがるらしい。
多細胞としての私、私の近くの家族、そして私と遺伝子を共有する日本人、さらに人類としての共通性を持つ世界の人たち、哺乳動物も、下等動物も、植物も、すべては一つの大きな多細胞生物としてこの地球に存在する。私には「生態系」は一つの生物に見えてしかたがない。
つづく