「知に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」とは夏目漱石の「草枕」の一節だ。
知恵があるのは良いが、知を前に出しすぎると角が立って人間関係は必ずしもうまくいかない。だいたい、頭の良い人というのは自分勝手でつきあいたくないものだ。
情が深いのは大切だけれどベトベトしてくる。意地も人間には必要だがガチガチになる。漱石は嘆く。
偉そうな顔をしてもっともなことを言う。でもよくよく考えるととんでもないこともある。こんなに社会が複雑で動きが速くなるとさらにこの世は住みにくい。
ある女性が嘆いた。
「甘みの抑えてあるものって危ないのよ。油断してつい食べる量が多くなって・・・」
と深刻だ。一口食べて甘ければ「これは危ない」と思うので食べる量が少なくなる。「甘さが抑えてあるな」と思うとつい食べてしまう。
結局、砂糖をとる量は同じだから甘くても甘くなくても体重は同じということになる。
毒物も同じだ。毒物を減らすのは大切なことなのだが、毒物には規制値がある。規制値というのは「毒物と人間や動物の関係」で決まるから、100ppmとかいう「数字」で決まっている。
仮に今まで1ppmの製品を100ヶ売ると規制値の100になるので、100ヶしか売れなかったメーカーがあったとする。このメーカーが研究開発して毒物の量を0.1ppmに減らしたとしよう。会社は「環境に優しい製品ができた」と宣伝し、研究者も受賞したりする。
ところが結果はそれほど感心したものではない。今までは100ヶしか売れなかったが、今度は1000ヶ売っても規制にかからない。かくして生産量は10倍になり、大量消費になる。
実は、産業革命以来、人間社会が「大量生産、大量消費」になったもっとも大きい原因は「よかれと思ってやればやるほど、良くなくなる」ということだった。
女工さんが一日10時間働いて1万メートルの糸を引くより、機械を改良して毎分1万メートルの糸を作った方が女工さんも楽だし、生産効率も高い。でも、結果は予想外の方向に進む。生産量が600倍になり、みんなが衣服を大事にせずに使い捨てするようになる。
電気を消すと「省エネルギー」になるという。でも歴史的事実は「省電力にするほど電力消費量が増える」。個別の行動が全体として反対の現象として現れるのを経済学では「合成の誤謬(fallacy of composition)」というが、環境は総合的なので合成の誤謬が多い。
目の前にあるペットボトル、使い終わってもいかにもきれいでこのまま捨てるのはもったいない。かといってリサイクルをするとかえって資源を使い、ゴミが増える。考えにくいが仕方のないことだ。
現在の日本人は日本の自然からとれる食料や物質、そしてエネルギーの実に1000倍も使っている(計算は愛知県)。豊かな生活をするには1000倍必要というわけである。もしこのままの生活で「自然のものが環境に良い」といってバイオマスなどを進めたらすぐ自然は枯れ果ててしまう。
私たちの幸福は「あふれるほどのものに囲まれれば幸福になる」というようなものではない。物やお金が多くなれば心や幸福は遠ざかっていく。物をとるか心をとるか、お金を取るか幸福をとるかは二者択一であり、それを選ぶのは自分である。
私は約束の時間が2時なら1時に行く。結婚式が2時から始まるのなら12時には会場に行く。約束の時間を気にしながら家にいる時間より、待ち合わせ場所の近くでゆっくりする時間の方が豊かな感じがする。
190円でも320円でも電車賃は気にならない。190円だから行く、320円なら止めるというなら私は行かない。財布の底をはたいても、次の食事を抜いても、会いたい人なら会いに行きたい。だから切符を買うときには値段を気にしないようにしている。
給料が20万円と30万円。仕事の内容は同じ。そんな時、30万円の方を選ぶようになったのはそれほど前ではない。自分の生活が18万円なら20万円の方がよいのだ。よけいに12万円もあると不幸になる。
良い環境とはそういう人にしか見えないのかも知れない。
おわり