わたしたちが長く親しんできた「ものの時代」に別れを告げ、いよいよ本当に心の満足を得るための「こころの時代」を築くために、実際の生活に立ち戻って、「愛用品の原理」を示します。

 実在感ある優れた環境、体の機能を適切に使った満足感、そして、自制と感動を呼ぶゆったりとした時間は、獲得しなければなりませんが、それと同様に、生活それ自体も、わたしたち自身が獲得するものであり、そのための第一条件が、愛用品を使うことだからです。
 
 ものに幸福を求め始めると、ある特徴が現れます。それを、インド独立の父、マハトマ・ガンジーが巧みに表現しています。

 「こころというのは落ち着きのない鳥のようなものであるとわたしたちはわきまえています。物が手に入れば入るほど、わたしたちの心はもっと多くを欲するのです。そして、いくら手に入っても満足することがありません。欲望のおもむくままに身を任せるほど、情欲は抑えが利かなくなります。」

 「もの」はこころが求めるものですが、こころは落ち着きのない鳥のようなものなので、ものが手に入り出すと、こころはものの方に移り、最初になにを目的としてものが欲しいと思ったのかを忘れてしまうのです。そして、現代の社会は、こころが本来の目的を忘れるようにし向けますので、余計にやっかいなことになります。

 「愛用品」が中心となる時代には、「もの」は三つに分かれるでしょう。
まず、「愛用品」です。愛用品とは次の五原則をもったものと著者は考えます。

一、 持っているものの数がもともと少ないこと
二、 長く使えること
三、 手をやかせること
四、 故障しても悪戦苦闘すれば自分で修理できること
五、 磨くと光ること、または磨き甲斐があること

 現在のわたしたちの身の回りには愛用品は少なくなりました。
わたしたちが愛用品を持てなくなった一つの原因は、あまり必要もないのに、そしてある時には良く考えずに「安いから」という理由でものを必要以上に飼ったことにも原因があります。そのようにして、身の回りのものがあまりにも多くなると、目移りしたり、忘れたりして「愛用」どころでは無くなります。そこで、愛用品の五原則の第一は、ものを少なくすることと言えるのです。


 次に、愛用品は長く使えることが条件であることは言うまでもありません。愛用品なのですから、長く使えないと愛用できません。長く使えるには、そのもの自体が丈夫であることが前提ですが、むしろ、まず自分が気に入っていることの方が大切です。人間は好き嫌いがありますし、愛用品をもつ目的はこころの時代にふさわしい生活をするのですから、自分が気に入るものを持つことがまずは必要です。

 しかし、それは「高いもの」や「ブランドもの」ではないことも確かです。著者はある時に外国に旅行し、カバンを求めようとしました。著者が買い物に入った立派な鞄屋さんは、その当時、日本では「立派」といわれるものの値段の五分の一くらいのものを勧めるのです。著者はもっと「高いもの」を買おうとしていましたから、「もう少し、高価なものはないか?」と何遍も聞きました。その時の、店の主人のいぶかしそうな顔と、「そんなに高くなくても、これで十分のはず」という言葉を忘れることができません。

 著者は「ものの時代」にとりつかれていたようです。
逆に、人間ですから間違って買うこともあります。気に入って買っても家についた途端に、失敗したと感じることも多いのです。そんなときは、すぐ捨てましょう。わたしたちの守るべき環境はあくまでも「こころ」であり「もの」はそのためにこそあるものだからです。

 そして、例えば家電製品を買うときには、その家電製品の性能ばかりではなく、それを居間においたときにどのように感じるのか、自分が頭に描いている居間にフィットするのか、電気的な性能より、そちらです。


 第三は、手を焼かせることと思います。
愛用品は毎日とは言えなくても、いつもつきあっているものです。それがあんまり簡単ですと愛用品になりにくい気がします。著者は、何回かそういう経験をしました。かつて、自分でプログラムを書かなければ動かないコンピューターがありました。故障はするし、思うように動かないし、それはやっかいなものでしたが、著者にはそれが一番、印象に残っているコンピューターです。それに比べると、なにからなにまで面倒を見てくれて、しかも、なにか自分でしようとすると、全部、拒否する最近のパソコンは可愛げがありません。


 四番目。
愛用品は長く使いますから、故障が大敵です。それも使っていて悔しいのは、愛用品自体はほとんど痛んでいないのに、つまらないところが故障して使えなくなることです。特に、家庭電化製品やパソコン、プリンター、コピー機などの電気製品に多く見られます。

 日本の電気製品はその点では、「愛用品」となる資格がないかもしれません。多くの電気製品は、良く故障し、故障すると高い修理費をとります。あまり工業製品を知らない人はそれが当たり前のように思っていますが、決してそうではありません。もともと、工業製品は故障しやすいところが決まっていて、そこを簡単に交換できるような設計にするのはそれほど難しいことでは無いからです。
むしろ、現在の故障の多くは少しでも安くして販売量を増やそうと、あまり信頼できない部品メーカーをつかって部品を納入させることが原因となっています。そして、買った人が「故障した」というと「新しいものの方がやすいですよ」という修理代と新品の価格体系を作っているのです。


 このような日本の工業製品の状態は、まさに「ものの時代」を象徴するもので、「安かろう悪かろう」を基本とし」「修理するなら買ってもらう」という考えで作られます。わたしたちが本当の意味でメーカーを選択できるなら、そんな心のこもらない商品は買いたくないのですが、現在でも「我が社の製品は、故障が少なく長持ちします。修理も簡単です。」という宣伝を見かけないのが不思議なのです。
愛用品が故障すること、それを悪戦苦闘して修理すること、それはものを持つ本当の楽しみを味合うことでもあります。


 最後に「磨けば光る、あるいは磨きがいがあること」は大切な愛用品の原則でしょう。
昔のパイプのように、現在では磨きがいのある商品は本当に少なくなりました。すべてもものが使うすてになり、リサイクルを呼びかけています。その結果、商品の表面に使う材料は、使い捨てを原則としていますし、時には「磨くこと」自体ができないような商品まであるのです。

 天然の木材を使った製品は、磨けば磨くほど趣のでる典型的な製品ですし、真鍮でできたぴかぴかした取っ手も磨きがいがあったものです。このような典型的な愛用品が無くなってきたのは、プラスチックや機能的な製品が出回ってきたためと思っている人が多いようですが、そうでもありません。

 プラスチックにしろ、他の材料にしろ、商品を作るときの現在の基準はなにしろ「安いものなら何でも良い」ということだからです。プラスチックでも高級品では、劣化が少なく、風合いがよいものは多いのですが、使い捨て文化の中にいるメーカーも、そして消費者すらも「安ければよい」という習慣に流されているのです。

 ともあれ、「愛用品を使う」ということ自体にはほとんど反対はありませんし、それが大量消費の時代から逃れる方法であることは誰もが反対しません。しかし、それを現実的に行って行くにはかなり大変であることが判ったかと思います。その第一の原因はわたしたちの習慣が変わらないということです。消費者が使い捨ての商品を選択している内は、愛用品は育たないでしょう。自分の目で見て、気に入ったものを少しだけ、慎重に選んで買う時代が待たれます。