二つのニュースが流れていた。一つは愛媛の医者が病気にかかっている人の腎臓を移植したこと、もう一つはどこかの音楽の先生が「君が代を弾くように」という校長先生の指示に従わなかったというニュースだ。
この二つの事件は全く関係が無いように見えるが、ほとんど同じ事件と言っても良い。なぜなら、類似点が多いからであり、それは医師と教師という職業が非常に似ているからである
少し前置きが長くなるけれど、この二つのニュースを良く理解するために「医師と教師」とはどういうものかということについて解説をしておきたい
世の中の職業には、
1)誰でも採用されればすぐにできる職業と、
2)一定の資格がなければできない仕事がある。
例えば医師は「医学大学を出て国家試験に受からなければならない」し、教師も基本的には「大学の教職課程を修得して試験に受かった人」である。
なぜ特別な職業だけが特別な大学を出て、特別な試験を受けなければならないのかというと、社会との信頼関係が必要だからである。これを「専門的職業」という。
例えば、医師が医学大学を出ず国家試験も受けずに勝手に医師と称して注射をしたり、手術をすることができたとすると大変に困る。人の生死に関わることである
これと同じように教師も勉強をせず試験も受けずに勝手に子供達を教育したら、間違ったことを子どもたちに教えることになるだろう。それは将来、日本の国をとんでもないことにするかも知れない。
だからこのような職業に就く人は、特定の大学を出て、特定の試験を受けた人という事になっている。さて、次からが話のポイントである。
だからといって、医師や教師が何でも自分の思う通りできるというわけではない。非常に大きな制約がある。それは
「医師は自分で治療方法を考案してはいけない」、
「教師は自分の考えを生徒に伝えてはいけない」
という制約である。
これを聞くと「おかしいな」と思う人がいるかもしれない。お医者さんは患者さんを治療するのだから、自分で考えた治療方法を使っても良いのではないかと考えている人がいる。しかし、それは違う。
あるお医者さんが微量の青酸カリを注射したら風邪が治ると思いついても、風邪で訪れた患者さんに青酸カリを注射してはいけない。人は一人一人が違う考えを持っているので、お医者さんにはその人なりの治療方法がある。経験のある医者ならなおさらだろう。
でも、お医者さんは自分で考案した治療方法を使ってはいけない。医学の学会で認められ、医師会で承認されているような治療法に限定される。安楽死などでたびたび問題になるのもこういった点である。どんなに患者さんが苦しんでいても安楽死が医学会で認められていない限りはしてはいけない。
教師もそうである。教師がいろいろ勉強した結果、地球は四角であるという結論に達したとしよう。そして生徒に「地球は四角だ」と教えるのは禁止されている。その先生がどう考えようと自由だが、教室で生徒に教える内容は学会で認められていることや科学的に受け入れられていることでなければならず、自分の信念に反しようと「地球が丸い」という場合は「地球が丸い」と教えなければいけない。
新しく物事を創り出したり、科学的な事実を見い出す人とお医者さんや学校の先生のように「相手に何かをする」という人では決定的に違うのだ。新しく何かを発見する人は、自然を相手にしていて人間を相手にはしていない。医学でも新しい発見は対象物が人体であっても、個別の人を相手にしているのではない。
このことを守ることは「専門家の倫理」の中の重要な項目の一つである。
例えば、法律を考えてみよう。どういう法律を作るかというのは、昔は王様が決め、今は国会が決める。王様や国会が決めた法律を具体的な条文の形にするのは、法学者であり、法学者が書いた民法や刑法を勉強して、それを社会のトラブルの解決に適用するのが弁護士や裁判官である。
弁護士が自分で法律を作ったのではどうしようもない。弁護士というのは法律を勉強して、社会のトラブルに適用するということが任務であり、常に法律を良く知っていて、その範囲を出ないというのが弁護士の仕事である。勝手に罪を決めてはいけない。
それと同じように、お医者さんは常に医学を勉強して、患者さんを治療するという役割を負っているのであり、自分で新しい医療方法を発見してはいけない。
またそれと同じように、学校の先生は常に自分が教えることを勉強して、生徒にそれを教えるという役割を負っているのであり、自分で新しい事実を発見して、そのまま生徒に教えてはいけない。
ここまで話すと、愛媛のお医者さんが病気の人の腎臓を移植して治療したという例や、ある学校の音楽の先生が自分の信念に基づいて君が代の伴奏をしなかったというのはどういうことかわかってくる。
もしも、病気の人の腎臓を移植して治療して良いということが医師会や医学会で認められているのならば、そのお医者さんは正しい。しかし、お医者さん自身で病気の腎臓を移植することが正しいと思っているだけならダメである。
ピアノの先生もそうだ。そのピアノの先生はこの前の戦争で多くの人が犠牲になり、その原因の一つが君が代にあるという考えを持っておられる。その考えが正しいかどうかということは、先生という仕事には関係が無い。先生というのは君が代が国歌になっているのなら、そのまま弾かなければならないし、国歌でなければ逆に校長先生が命令しても弾いてはいけない。
どちらかだ。
例えば私は大学の先生だが、先生として学生に講義をする時には私自身の考えは出さない。何か新しいことを話す時には必ず誰かに問い合わせて、自分が言うことが正しいかどうかをチェックする。
例えば環境問題で、「森林は二酸化炭素を吸収するか」ということを学生に教えようとした時、私は日本では森林関係の権威である「森林総合研究所」に電話をして森林が二酸化炭素を吸収するかどうかを聞いた。答えは「森林は二酸化炭素を吸収しない」ということで私の考えと同じだったので安心して講義をした。
このように、専門的な職業に就いている人には守るべき倫理がある。そのことがよくわかっていれば、おそらく愛媛の事件やピアノの裁判などが無かったように思う。論理的に話し合えばすぐわかることで思想の問題ではない。
病気の腎臓を移植するということが学会で認められているのか、君が代は国歌として認められているのか、それを議論すれば終わりである。
仮に君が代が国歌として認められていて、その先生がどうしてもそれには従えないという信念を持っておられるとする。その場合は、その先生は職業を辞めるのが当然である。それは思想の問題ではない。先生という職業がもたらす制限である。
ある医師が「人間は死んだ方が良い」と考えて毒物の注射をしたくなっても、お医者さんとしてやってはいけない。それは1回、お医者さんを辞められてからやれば良い。そうすると殺人罪で逮捕されて死刑になるだろうが、職業としての倫理は守ることができる
社会が複雑になってきて、多種多様な事件が起こる。その度に消化不良のコメントが流れてくるけれども、基本的な約束や論理をしっかりと理解することが特に必要になってきたと感じられる。
でも最後に一つ文章を付け加えておきたい。医師や教師のような職業で一番大切なことは「心」だ。職業的倫理、まして報酬などの金銭を度外視した仕事に対する心が求められる。
つづく