政府はごみを無くして資源を節約するために「3R(リサイクル、リユース、リデュース)」という政策を進めている。でも、私はどうも気乗りしない。環境に関心のある多くの人が賛成する3Rに私はなぜ、気乗りしないのだろうか?
もともと英語で表現することが嫌いだ。でも、それはひがみかも知れない。そこで、個別に考えてみたい。
リサイクルについてはすでに何度も私の考え方を表明しているので理由は繰り返し示さないが「リサイクルする方が単純に捨てるより資源を使い、ごみが増えるから」ということであり、将来は別にしてここ50年ぐらいはいくら社会が努力しても無理であると考えられる。
それでは「リユース」はどうだろうか? リユースというと「他人の使ったものを買って使う」という方法だ。昔から無かったわけではないが、知り合いから譲って貰うような場合は別にしてあまり一般的ではなかった。
古着屋が無かったわけではないが、多くの人が着る服のほんの一部だった。多くは「親から子」「兄から弟」であり、それ以外はせいぜい「ご近所から」だった。
その理由は二つあった。一つはみんながものを大切にしていたので多くのものはボロボロになるまで使われた。だから使い終わったから人にあげるなら良いが「売る」にはあまりにも・・・という感じだったからだ。
もう一つは、技術革新が遅かったし、生活のリズム自体がゆったりとしていた。子供は親の時代のものを十分に使えた。現代は親どころか10年前には必需品だった公衆電話を捜すことすら難しい。自動車でも排気ガス規制で新しい車を買わないと環境に悪いし、燃費の良い車も出てくる。さらにハイブリッド、そして電気自動車だ。
技術革新を追って次々と買い換えるからリユースという言葉も出てくる。でも「古くて環境に悪い車」「みんなの生活スタイルが変わったから使えなくなったもの」を誰が使うのかは考えられていない。捨てる人は良いがそれをリユースする人は誰だろう?
この問題の本質に入る前に、「リユースと言っても古いものを使う人は誰か」という問題に触れたいと思う。
リサイクルが始まった頃、「衣類のリサイクル」というのがあった。かなり熱心に運動もあり、昔の「お古」の思い出もあるので多くの人が参加した。でも暫く経ってわかってきた。古着は出てくるのだが、着る人がいない。値段も付かないようなものは誰も欲しがらない。せいぜい、ブランド品が出ると貰い手があるぐらいだった。
そこで、日本人は贅沢でダメだから貧乏な国に出そうということになり多くは東南アジアに売られていた。でも、「環境倫理」の観点から見れば倫理違反である。環境問題が国際的な問題になってから、国際的な約束が出来た。それは「金持ちの国が、お金があるからといって貧乏な国にごみを出してはいけない」という原則だった。
もちろん、国際的な条約や取り決めが無くても、およそ「環境に関心がある」という限りは「ごみを他国に」などと考えること自体が失格だろう。
「衣類のリサイクルはそうではない」という話も出てくる。「日本人は生活レベルが高いから衣類を捨てなければならないが、貧乏な国が欲しいのならごみをあげても良いのではないか」という論理である。
この論理は一理ある。人間をお金持ちと貧乏人に分けて、それぞれ分に応じた生活をしてよいというように定義すれば良いし、現実的かも知れない。でも私は違う。私は収入などが違うことは仕方がないが、自分は金を出すからごみを取りに来いと言われても行きたくはない。膝が痛くてごみが出せないというならお金を貰わなくてもごみを取りに行く。
私の個人的な考え方だが、環境というのはみんなで協力してやっていくものなので、「有害物質を出しても良いじゃないか、その有害物質で病気になったら保証金は出すから」とか「俺はお金持ちだから、毎日、シャツを捨てる。ごみが増えても良いじゃないか」という考え方は困るのだ。
そんな酷いことを考える人はいないと思うだろうが、実はそうではない。現実にあった話を紹介しよう。それはアメリカのフォードという自動車会社で起きた「フォード・ピント事件」である。
フォードが40年ほど前に「ピント」という小型車を作って販売を始めた。暫くして、車両の後部から火災が発生し、それで死ぬ人が出てきた。フォードが調べてみると後部の部品にボルトの突きだした部分があり、それが時にガソリンタンクを破って火災になるのだった。
フォード社内で検討会が行われた。このままにしておくと数年以内に100人程度の死者が出る。一人当たりの賠償金を8000万円とすると合計で80億円が必要となる。だからといってピントを全て回収して修理し、これから販売するピントは新しく設計し直すということになると300億円はかかる。
その結果、100人は死ぬがこのままにしておく方が得だという事になった。フォードという世界的な自動車会社の正式決定であった。かくしてピントはそのまま販売され100人が犠牲になり、80億円が支払われた。
この酷い「反社会的」営業は猛烈に非難されて、フォードは決定を撤回した。当然である。人の命はお金に代えられない。代えられないけれど死んでしまったら次善の策を講じる必要があり、それが賠償というものだ。最初から計画したらそれは殺人である。
多くの人はフォードのピント事件と古着とは違うという。でも私にはそれらが同じことに感じられる。自分がごみとして捨てるものを他人に売ってはいけないと思う。自分がまだ使いたい衣料を必要な人に渡すことは「慈善」なら良いのではないか、私の倫理観ではそう思う。
人間は着るものが無くて寒いことがある。でも我慢ができれば我慢する。死ぬほどになって初めて人の「施し」を受けなければならない。自分の力で生活ができる間は決して人様のものを貰ってはいけないし、まして人様が捨てたものを拾ってはいけない。私は貧乏に苦しんでも子供にそう教えるだろう。
自分の子供と東南アジアの人は違う、彼らは我々より下等だ、とは私は全く思わない。自分たちが捨てたごみを輸出している私たちの方がずっと下等のように感じられる。
かくして、私は「ごみとして出された衣料を輸出する」のは気が進まない。でも、日本では他人が捨てた古着を着る人は滅多にいない。それどころか郊外の大型スーパーに行くと溢れるほどの洋服が売られている。そんな環境でみんなが他人の古着を着るとはとても信じられない。もちろん1万人に一人ぐらいはおられるだろうが、それではリユースにならない。
少し話が長くなった。リユースの本質である、「豊富な工業製品」と「技術革新の問題」にはまだ触れていないので、それは次回にしたい。
つづく